りろさんの 「権利について」
2006年 10月 24日
私の記事より長いくらい。
せっかくなので 読みやすいように 一つにまとめました。
ご本人に許可もいただいています。
ほんとは所々 私の合いの手 というか 会話形式ではないけど 私自身のコメントもいれたいのですが そうするとややこしくなるので 純粋りろさんのコメントをのせました。
cazorlaさん、子どもを縛る病院って、けっこうあります。たとえばT小児病院では、アトピーの子どもなんか、掻いちゃいけないといっても掻いてしまうので、手足をベッドに縛り付けられて入院させられるといいます。
国籍その他については、日本は明治以来、とっても父権主義的なんですよね。これは今の天皇のお世継ぎ問題にもつながっていますね。
アメリカ在住のある方のブログで読んだのですが、その方のお友だちはアメリカ人と結婚して夫の暴力で苦しむことになった時、二人の子どもの日本国籍を取っていなかったため、子どもを連れて日本に逃げ帰るという選択ができなかったそうです。何故って、それをすると、国際誘拐になってしまうから。
権利については、責任とセットで考えなくてはいけない面もあると思うのですが、その権利も責任も、もともとすべての個人に属する問題だ、って私は考えています。つまり、誰もがいろいろな感情や感覚や考えや好みを持って生きている、ということを認められるべきだし、いろいろな痛みを味わいながら生きているということを労られるべきだし、当人の好みや選択を尊重されるべきだし、同時に、何かをしたことに対する責任は、基本的にその行為をした当人にのみ帰せられるべき、と思っているのです。
でも、その辺の境界線が、日本では、いつもグズグズになってしまうのですよね。みんなが一緒にかばい合ったり、みんなが一緒にガマンしたりする。個人の事情や痛みは無視される。でも、そのみんなって、誰のこと?そのみんなから村八分にされた人には、権利がないものとされたりしますよね。そして、そのみんなに対して、何かを決定する権利を持っているのは、家父長的立場の人だけだったりする。だから、多くの人が、自分で考えて決定する、ということに明確な責任を負わない……。そういうわけで、日本では、「自分は何を感じ、何をしたいのか?」をつきつめて意識して考えて実際の行動に移す、ということを控えるよう訓練されてしまうので、依存性人格障害者の集団となってしまうのですよね。つまり、本当に個人単位でものを考えた上でそれをぶつけあっていく、そのことで最大限の自由を獲得していく、という民主主義にはならない、ってことでしょ。
例えば、公立学校の給食もね、アレルギーなどの問題がない限りは、食べない選択をしてはいけないらしいのです。でも、今は戦後のような栄養失調の時代とは違うし、アスペルガー症候群(高機能自閉症)なんかで味覚がへんに敏感で決まったものしか食べられない子もいるしね、ベジタリアンの家族もいるかもしれないし、何を食べるかなんて、最終的には、個人の選択の自由の問題だと思うのですがね。もたれあうことを拒む個人を許さない依存性人格障害者たちに特有の言いぐさの常として、「集団の和を乱す」とか言われちゃうんだろうなあ。
もちろん、公の場で個人の権利がある程度抑制させられるのは当然のことです。でも、人権っていうのは、いろいろな付随的な権利以前の権利ですよね。たしかに「権利」って人工的なコトバであり概念かもしれないけれど、人を家畜のように扱ったり拷問にかけたり平気でしてきた過去への反省の上に確立されてきた概念だと思いますし、それは他人や他集団の人たちの痛みを理解できるようになったり、(動物の権利に関しては)生態系が他の生物たちとの相互依存によって成り立っていることを理解できるようになった現代人の文明ならではの、成熟の証とも言える概念ではないでしょうか。ただ、どこで線を引くかについては、もちろん、いつも揺れているんだと思いますが
もひとつ、人として大切にされなかった人間が、いかに心を病んで問題のある大人となるか、ってことが理解されるようになった、ってことも、人権の問題には絡んでいると思います。だって、大切にされずに育った人が、例えばヒットラーのようになったりするわけですしね
ああ、もうひとつ、書きたくなってしまいました。それは、多分、基本的人権って、「人としてちゃんと向き合ってもらえる」「耳を傾けてもらえる」ってことかな、って思ったのです。前に、よしもとばななさんの日記の中で、「子どもと動物はことばがわからなくてもちゃんと説得すれば伝わる」って書いてあったのですが、そういうふうに向き合ってもらう権利が、たとえ赤ちゃんにだってある、ってことだと思います。
★2日目のコメント★
医療現場で人を縛る時、やむを得ずそうする時は、相手が子どもであろうと高齢者であろうと、「ごめんなさいね、私たちも手が足りないので、あなたが傷つかないようにするためにこうせざるを得ないのよ、許してね、かわいそうに」という気持ちを持ちながら縛るのか、それとも当然の処置としてモノを扱うように縛るのかでは、まったく違ってくるだろうと思います。つまり、縛る・縛らないという以前に、相手を人間として見てその痛み苦しみに共感しようとしているのか、ってことでしょう。人手不足や忙しさでそのように心を働かして患者さんと向き合う余裕さえなくなっているのが現場の現実だとすれば、それは本当に行政でなんとかすべき問題だろうと思います。
動物の権利ということに関しては、確かに、あまりにも自分の心情を動物に投影して感情的になってしまっている人たちがいる、というのも事実ですが、それは人間の側の自分勝手さというもので、動物の立場を本当に考えてのものの見方だとは思えません。それは本当の動物の権利とは違うものでしょう……ということを、ここに付け加えておきますね。
それから、スペインの病院で屈強な男性が運んでくれたというところを読ませていただいて、思い出しました。アメリカでは、例えば、血液検査用の血液を採る作業は、それ専用の資格を持った人がするそうです。看護士や医師の手をわずらわせないためです。医師には本当に大事な診断と判断を下す仕事に専念してもらうためだそうです。そういう棲み分けは絶対に必要ですよね。日本では看護士さんに負担が掛かりすぎじゃないでしょうか。
それから、ノルウェイの刑務所の話で思い出したのですが、フランスの刑務所では、昔から、何を食べたいかを囚人が選択できるそうです。明治時代の文豪かだれかがフランスで収監された時、メニューはここから選ぶか、それがいやなら外から取ってもいいよ、と言われたらしいです。それは今でも同じで、例の佐川君が収監された時にもそうだったらしいです。何を食べるかは囚人であろうと個人の権利、というわけですね。
もうひとつ。日本の刑務所ではあまりにも細かく管理されるので、刑期が終わった時、自分でものごとを決められなくて社会復帰できない人がものすごく多いそうです。それだけでなく、社会の側に、前歴のある人を雇って社会復帰をサポートしようという意志のある人が少ないことも問題ではあるのですが。
国民一人一人が国政に参加しないとますます非人道的権利が横行することになるでしょう。日本では人道の名の下に怠け者に権利を与えすぎています。 アメリカの場合、成人になったら自動的に選挙権が与えられるのではなく、選挙権行使の申し込みをしないと選挙で投票することが出来ないと聞きました。これって明らかに作為的な弱者切り捨てです。 囚人が食べ物を選ぶ権利があるとのことですが、これは宗教的な問題と関係しているように思います。
権利の話題からは断線してしまい恐縮ですが。私は苦手な人でも何等かの理由で付き合わなければならない時、その人の育った環境や物の考え方なども考えてその「人」を理解しようとします。確かに、複雑な家庭環境に育った人で癖のありすぎる性格のまま、還暦を迎えた人もいます。逆に、真面目で純粋すぎて「親の期待に応えたい」とまっすぐに思いつめて「うつ」になった人も知っています。人それぞれに自己があり、受け止め方も違うから「自分が大切にされていると感じる」そのポイントも異なりますよね。逆境からすばらしい人が育つこともありえるし、完璧な両親の子がぐれてしまう場合も。言い出すときりがないし、子育ては難しそう・・・だとは思うんですが完璧な母になれなくてもやはり 子育てはしてみたいと思います。
ただ子育ての場面では人権というものをはき違えていることが多々あるように思います。人権の名の元になんでもありの親子が繁殖している感があります。
給食にしても、主義のもとに食べない選択は必要です。
公立ではそんな主張をすればイジメのもとですね。
けれど、なんとなく嫌いというだけで残してよいことも、権利にあぐらをかいていると思うのです。保育サポーターをしていて頓に感じるのですが、食べなれないもの、ちょっと味付けが我家と違うというだけで、残す子どものなんと多いことか。
例えが食に関してになりましたが、権利の主張がなされるべきところでなされず、都合よく権利の横行がなされているように思うのです。
囚人が食事を選べるということについては、確かに、宗教の関係があるのかもしれませんね。100年前にはフランス国内にはイスラム教徒はあまりいなかったかもしれませんが、ユダヤ人はたくさんいたでしょうから。
いろいろな味の食物に対して好奇心を持ち、オープンに味わってみようとする、ということは、物事の多様性を味覚を通して学ぶ、ということでもあるし、まんべんなくいろいろな栄養を摂るためにも、とても大切なことだと思います。ただ、子どもは、時として、本能的に自分に合わない食べ物を拒むことがあります。アレルギーとまでは言えなくても、体調が悪い時に、特定の食べ物を食べると炎症がひどくなったりすることがあるのです。そういう観点から、ある程度は選択の自由があるべきだ、と私は思っているのです。それと、他人と違うことをする人をいじめる、という小学校などにありがちなカルチャーも、もうちょっとなんとかならないかと思っています。まあ、一般に子どもというのは、友達のマネをしたがり、異分子を好まないものなのかもしれませんけれどもね。
普段、障害児と関わっています。「権利」の問題って難しいですね。子供たちは言葉が話せない子もいたりするので、態度を見て彼らの要求を判断する事があります。正直いうと、自閉傾向の児童の場合ちょっとしたきっかけでパニックになり、自傷行為が始まります。そういった場合、手がつけれません。とにかく気持ちを落ち着かせて、対応はしています。
時々、福祉サービスを利用している子供たちもいますが、中には利用しない人もいます。それは、子供が行きたくないから・・・と言った理由からです。そんな話を聞くと彼らの「権利」ってどこにあるんだろう?と思います。
どういう食べ物が体に合うかは、個人差が大きいです。ですので、自分のからだと向き合い、何を食べるか選ぶことに、人は自己責任を持つべきだと思っているのです。単にわがままで食べない、というのは論外です。
ケロさん、「権利」を拡大解釈すると、とてもむずかしいことになっちゃいますよね。私は、「権利」の基本は、その人が持って生まれた魂や心身を尊重して、大切に向き合ってもらう、というシンプルなことだと思っています。生きるということは、いろいろな葛藤をかかえて傷だらけになっていくことですから、それを片端から排除して「権利」で守っていくことなんて、現実的ではありませんよね。ただ、基本的な「生きる力のベース」をできるだけ損なわれないで歪まされないで育っていく権利が生き物にはあるだろう、と思っているだけです。それを、お互いに大切にしていければ、と思っているのです。
その通りだと思いました、良いか悪いかは別として幼い頃からこのシステムに疑問を感じていました。難しいテーマですけど、りろさんの文章表現力は論理的だしまとまりがあって素晴らしいなと思いました。
pfglaさん、私は、長いこと、「従順」「親孝行」「和を大切に」などというコトバに忠実になろうとして、主体性を放棄し、葛藤を押し殺して育ってきました。できあがったのは、社会的スキルのない、おどおどした指示待ち人間でした。それが、もっともモラルに適った在り方だと思い込んでいたのです。そこから、自分自身の生きる力を信じる気持ちや自分のほんとうの気持ちと向き合うことのできる力を取り戻すまでには、長い長い年月が必要でした。私の人生の大半は、自己セラピーと、私を虐待した人たちの内面を理解することのために費やされてしまったのです。
なるべく、多くの人たちが、こんな体験をしないで済むようにするために、人生の後半生で私は何をしていけるであろうか、ということをずっと考えている今日このごろです。
ハードパワーで競争する時代は早く終わらせて、人道主義で競争する時代へ変革しなければなりません。
人格で勝負する時代を迎えるには、人権を理解する教育の果たす役割は大きいです。
人権を主張する先生は多くても、いじめをなくそうとする先生が居ないのは、悲しいことです。教育者の質の問題が、どこまでも続くように思われます。
人権のことについて話しているのです。
人権を守るのは国の仕事です。
前にも書きましたが 患者を縛るということを強いられている看護婦さんの人権も侵されているのです。 なぜ 日本の病院は一人の看護婦さんにあれもこれもとさせるのでしょうか。
看護婦さん 介護士さん の人権も守るべきなんです。