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りろさんの 「権利について」

権利についての私の記事に りろさんがたくさんコメントを書いてくださって。
私の記事より長いくらい。
せっかくなので 読みやすいように 一つにまとめました。
ご本人に許可もいただいています。
ほんとは所々 私の合いの手 というか 会話形式ではないけど 私自身のコメントもいれたいのですが そうするとややこしくなるので 純粋りろさんのコメントをのせました。


cazorlaさん、子どもを縛る病院って、けっこうあります。たとえばT小児病院では、アトピーの子どもなんか、掻いちゃいけないといっても掻いてしまうので、手足をベッドに縛り付けられて入院させられるといいます。
国籍その他については、日本は明治以来、とっても父権主義的なんですよね。これは今の天皇のお世継ぎ問題にもつながっていますね。
アメリカ在住のある方のブログで読んだのですが、その方のお友だちはアメリカ人と結婚して夫の暴力で苦しむことになった時、二人の子どもの日本国籍を取っていなかったため、子どもを連れて日本に逃げ帰るという選択ができなかったそうです。何故って、それをすると、国際誘拐になってしまうから。

権利については、責任とセットで考えなくてはいけない面もあると思うのですが、その権利も責任も、もともとすべての個人に属する問題だ、って私は考えています。つまり、誰もがいろいろな感情や感覚や考えや好みを持って生きている、ということを認められるべきだし、いろいろな痛みを味わいながら生きているということを労られるべきだし、当人の好みや選択を尊重されるべきだし、同時に、何かをしたことに対する責任は、基本的にその行為をした当人にのみ帰せられるべき、と思っているのです。

でも、その辺の境界線が、日本では、いつもグズグズになってしまうのですよね。みんなが一緒にかばい合ったり、みんなが一緒にガマンしたりする。個人の事情や痛みは無視される。でも、そのみんなって、誰のこと?そのみんなから村八分にされた人には、権利がないものとされたりしますよね。そして、そのみんなに対して、何かを決定する権利を持っているのは、家父長的立場の人だけだったりする。だから、多くの人が、自分で考えて決定する、ということに明確な責任を負わない……。そういうわけで、日本では、「自分は何を感じ、何をしたいのか?」をつきつめて意識して考えて実際の行動に移す、ということを控えるよう訓練されてしまうので、依存性人格障害者の集団となってしまうのですよね。つまり、本当に個人単位でものを考えた上でそれをぶつけあっていく、そのことで最大限の自由を獲得していく、という民主主義にはならない、ってことでしょ。

例えば、公立学校の給食もね、アレルギーなどの問題がない限りは、食べない選択をしてはいけないらしいのです。でも、今は戦後のような栄養失調の時代とは違うし、アスペルガー症候群(高機能自閉症)なんかで味覚がへんに敏感で決まったものしか食べられない子もいるしね、ベジタリアンの家族もいるかもしれないし、何を食べるかなんて、最終的には、個人の選択の自由の問題だと思うのですがね。もたれあうことを拒む個人を許さない依存性人格障害者たちに特有の言いぐさの常として、「集団の和を乱す」とか言われちゃうんだろうなあ。

もちろん、公の場で個人の権利がある程度抑制させられるのは当然のことです。でも、人権っていうのは、いろいろな付随的な権利以前の権利ですよね。たしかに「権利」って人工的なコトバであり概念かもしれないけれど、人を家畜のように扱ったり拷問にかけたり平気でしてきた過去への反省の上に確立されてきた概念だと思いますし、それは他人や他集団の人たちの痛みを理解できるようになったり、(動物の権利に関しては)生態系が他の生物たちとの相互依存によって成り立っていることを理解できるようになった現代人の文明ならではの、成熟の証とも言える概念ではないでしょうか。ただ、どこで線を引くかについては、もちろん、いつも揺れているんだと思いますが

もひとつ、人として大切にされなかった人間が、いかに心を病んで問題のある大人となるか、ってことが理解されるようになった、ってことも、人権の問題には絡んでいると思います。だって、大切にされずに育った人が、例えばヒットラーのようになったりするわけですしね

ああ、もうひとつ、書きたくなってしまいました。それは、多分、基本的人権って、「人としてちゃんと向き合ってもらえる」「耳を傾けてもらえる」ってことかな、って思ったのです。前に、よしもとばななさんの日記の中で、「子どもと動物はことばがわからなくてもちゃんと説得すれば伝わる」って書いてあったのですが、そういうふうに向き合ってもらう権利が、たとえ赤ちゃんにだってある、ってことだと思います。

★2日目のコメント★
医療現場で人を縛る時、やむを得ずそうする時は、相手が子どもであろうと高齢者であろうと、「ごめんなさいね、私たちも手が足りないので、あなたが傷つかないようにするためにこうせざるを得ないのよ、許してね、かわいそうに」という気持ちを持ちながら縛るのか、それとも当然の処置としてモノを扱うように縛るのかでは、まったく違ってくるだろうと思います。つまり、縛る・縛らないという以前に、相手を人間として見てその痛み苦しみに共感しようとしているのか、ってことでしょう。人手不足や忙しさでそのように心を働かして患者さんと向き合う余裕さえなくなっているのが現場の現実だとすれば、それは本当に行政でなんとかすべき問題だろうと思います。

動物の権利ということに関しては、確かに、あまりにも自分の心情を動物に投影して感情的になってしまっている人たちがいる、というのも事実ですが、それは人間の側の自分勝手さというもので、動物の立場を本当に考えてのものの見方だとは思えません。それは本当の動物の権利とは違うものでしょう……ということを、ここに付け加えておきますね。

それから、スペインの病院で屈強な男性が運んでくれたというところを読ませていただいて、思い出しました。アメリカでは、例えば、血液検査用の血液を採る作業は、それ専用の資格を持った人がするそうです。看護士や医師の手をわずらわせないためです。医師には本当に大事な診断と判断を下す仕事に専念してもらうためだそうです。そういう棲み分けは絶対に必要ですよね。日本では看護士さんに負担が掛かりすぎじゃないでしょうか。

それから、ノルウェイの刑務所の話で思い出したのですが、フランスの刑務所では、昔から、何を食べたいかを囚人が選択できるそうです。明治時代の文豪かだれかがフランスで収監された時、メニューはここから選ぶか、それがいやなら外から取ってもいいよ、と言われたらしいです。それは今でも同じで、例の佐川君が収監された時にもそうだったらしいです。何を食べるかは囚人であろうと個人の権利、というわけですね。

もうひとつ。日本の刑務所ではあまりにも細かく管理されるので、刑期が終わった時、自分でものごとを決められなくて社会復帰できない人がものすごく多いそうです。それだけでなく、社会の側に、前歴のある人を雇って社会復帰をサポートしようという意志のある人が少ないことも問題ではあるのですが。
Commented by antsuan at 2006-10-24 11:53
日本の医療は許認可でがんじがらめになって、ご存知のように良心的な医療従事者が何かやったら罰せられるほど酷くなっています。 やむを得ずそうする時の心遣い、全く同感です。 日本でも臨床検査技師が採血をすることは許されていますが、もっと根本的なものを直さないと焼け石に水ですね。
国民一人一人が国政に参加しないとますます非人道的権利が横行することになるでしょう。日本では人道の名の下に怠け者に権利を与えすぎています。 アメリカの場合、成人になったら自動的に選挙権が与えられるのではなく、選挙権行使の申し込みをしないと選挙で投票することが出来ないと聞きました。これって明らかに作為的な弱者切り捨てです。 囚人が食べ物を選ぶ権利があるとのことですが、これは宗教的な問題と関係しているように思います。
Commented by luna at 2006-10-24 14:58 x
>人として大切にされなかった人間が、いかに心を病んで問題のある大人となるか

権利の話題からは断線してしまい恐縮ですが。私は苦手な人でも何等かの理由で付き合わなければならない時、その人の育った環境や物の考え方なども考えてその「人」を理解しようとします。確かに、複雑な家庭環境に育った人で癖のありすぎる性格のまま、還暦を迎えた人もいます。逆に、真面目で純粋すぎて「親の期待に応えたい」とまっすぐに思いつめて「うつ」になった人も知っています。人それぞれに自己があり、受け止め方も違うから「自分が大切にされていると感じる」そのポイントも異なりますよね。逆境からすばらしい人が育つこともありえるし、完璧な両親の子がぐれてしまう場合も。言い出すときりがないし、子育ては難しそう・・・だとは思うんですが完璧な母になれなくてもやはり 子育てはしてみたいと思います。
Commented by honn623 at 2006-10-24 15:31
子どもを断乳させるとき、よく言い聞かせると必死に我慢していたのを思い出しました。まだ一歳半の頃です。
ただ子育ての場面では人権というものをはき違えていることが多々あるように思います。人権の名の元になんでもありの親子が繁殖している感があります。
給食にしても、主義のもとに食べない選択は必要です。
公立ではそんな主張をすればイジメのもとですね。
けれど、なんとなく嫌いというだけで残してよいことも、権利にあぐらをかいていると思うのです。保育サポーターをしていて頓に感じるのですが、食べなれないもの、ちょっと味付けが我家と違うというだけで、残す子どものなんと多いことか。
例えが食に関してになりましたが、権利の主張がなされるべきところでなされず、都合よく権利の横行がなされているように思うのです。



Commented by りろ at 2006-10-24 17:22 x
antuanさん、確かにおっしゃる通り、どこまで弱者を保護するのか、ということには難しい問題がつきまといますね。おそらく、必要なことは、ただ弱者を保護するのではなく、敗者復活のチャンスをどう与えるか、サポートするのか、ということかもしれません。
囚人が食事を選べるということについては、確かに、宗教の関係があるのかもしれませんね。100年前にはフランス国内にはイスラム教徒はあまりいなかったかもしれませんが、ユダヤ人はたくさんいたでしょうから。
Commented by りろ at 2006-10-24 17:32 x
lunaさん、子育ての問題も、一口には言えないことですね。ただ、私は、アルコール依存症の父のもとで虐待を受け、潔癖性の母からは情緒的虐待を、また近所の少年から性的虐待を受けて育ちました。そして、おとなになってから、そのトラウマと向き合うのに何年分もの時間とエネルギーを費やさざるをえなくなったのです。その経験を無駄にすまいと、臨床心理やいろいろなセラピーの技法や理論を自分なりに勉強してきました。その経験から、子育てには専門家の介入やサポートが必要な分野が確かにあるのだと、声を大にして言いたいです。心の成熟は、どれだけおのれの深いところにある自己(自我ではない)を素直に肯定できるか、愛せるか(自己正当化とは違うものです)にかかっており、それに失敗すると、心を病んだ人間ができあたってしまうのです。
Commented by りろ at 2006-10-24 17:33 x
lunaさん、ただ、専門家の介入が常に必要というわけでは、もちろんありません。時に必要になる、ということです。
Commented by りろ at 2006-10-24 17:43 x
honn623さん、そうですね。最近、給食費を払わない親が増えてきている、と読んで、驚きました。食の自由は大事だと思うのですが、それはまったくはき違えですね。
いろいろな味の食物に対して好奇心を持ち、オープンに味わってみようとする、ということは、物事の多様性を味覚を通して学ぶ、ということでもあるし、まんべんなくいろいろな栄養を摂るためにも、とても大切なことだと思います。ただ、子どもは、時として、本能的に自分に合わない食べ物を拒むことがあります。アレルギーとまでは言えなくても、体調が悪い時に、特定の食べ物を食べると炎症がひどくなったりすることがあるのです。そういう観点から、ある程度は選択の自由があるべきだ、と私は思っているのです。それと、他人と違うことをする人をいじめる、という小学校などにありがちなカルチャーも、もうちょっとなんとかならないかと思っています。まあ、一般に子どもというのは、友達のマネをしたがり、異分子を好まないものなのかもしれませんけれどもね。
Commented by ケロ at 2006-10-24 17:44 x
初めてコメントさせていただきます。
普段、障害児と関わっています。「権利」の問題って難しいですね。子供たちは言葉が話せない子もいたりするので、態度を見て彼らの要求を判断する事があります。正直いうと、自閉傾向の児童の場合ちょっとしたきっかけでパニックになり、自傷行為が始まります。そういった場合、手がつけれません。とにかく気持ちを落ち着かせて、対応はしています。

時々、福祉サービスを利用している子供たちもいますが、中には利用しない人もいます。それは、子供が行きたくないから・・・と言った理由からです。そんな話を聞くと彼らの「権利」ってどこにあるんだろう?と思います。
Commented by りろ at 2006-10-24 17:51 x
食の自由に私がこだわるのは、一つには、私がアトピーで、食にはいろいろと苦労したからです。今も、体調が悪くなると、アレルギーとまではいかないけれど、合わない食べ物が出てきますし、いったん体内をクリーンにするために断食しなければいけなくなる時もあります。そうでないと、激烈なかゆみのために七転八倒するハメになるのです。
どういう食べ物が体に合うかは、個人差が大きいです。ですので、自分のからだと向き合い、何を食べるか選ぶことに、人は自己責任を持つべきだと思っているのです。単にわがままで食べない、というのは論外です。
Commented by りろ at 2006-10-24 17:54 x
ごめんなさい、ミスタイプしました。アトーじゃなくてアトピーです。
Commented by りろ at 2006-10-24 18:01 x
cazorlaさんのページなのに、なんだか、私が乗っ取ったみたいになっちゃってますね。ごめんなさい。

ケロさん、「権利」を拡大解釈すると、とてもむずかしいことになっちゃいますよね。私は、「権利」の基本は、その人が持って生まれた魂や心身を尊重して、大切に向き合ってもらう、というシンプルなことだと思っています。生きるということは、いろいろな葛藤をかかえて傷だらけになっていくことですから、それを片端から排除して「権利」で守っていくことなんて、現実的ではありませんよね。ただ、基本的な「生きる力のベース」をできるだけ損なわれないで歪まされないで育っていく権利が生き物にはあるだろう、と思っているだけです。それを、お互いに大切にしていければ、と思っているのです。
Commented by pfgia at 2006-10-24 23:34
>日本では、「自分は何を感じ、何をしたいのか?」をつきつめて意識して考えて実際の行動に移す、ということを控えるよう訓練されてしまうので...

その通りだと思いました、良いか悪いかは別として幼い頃からこのシステムに疑問を感じていました。難しいテーマですけど、りろさんの文章表現力は論理的だしまとまりがあって素晴らしいなと思いました。
Commented by cazorla at 2006-10-25 02:14
りろさんの文章を載せているのですから乗っ取ったみたいなんて思わないでください。 コメレスもしていただいてありがとうございます。
Commented by りろ at 2006-10-25 04:12 x
cazorlaさん、ありがとうございます。

pfglaさん、私は、長いこと、「従順」「親孝行」「和を大切に」などというコトバに忠実になろうとして、主体性を放棄し、葛藤を押し殺して育ってきました。できあがったのは、社会的スキルのない、おどおどした指示待ち人間でした。それが、もっともモラルに適った在り方だと思い込んでいたのです。そこから、自分自身の生きる力を信じる気持ちや自分のほんとうの気持ちと向き合うことのできる力を取り戻すまでには、長い長い年月が必要でした。私の人生の大半は、自己セラピーと、私を虐待した人たちの内面を理解することのために費やされてしまったのです。
なるべく、多くの人たちが、こんな体験をしないで済むようにするために、人生の後半生で私は何をしていけるであろうか、ということをずっと考えている今日このごろです。
Commented by eaglei at 2006-10-25 05:44
人権を獲得する歴史は、フランス革命を経ても未だ続いているのでしょう!
ハードパワーで競争する時代は早く終わらせて、人道主義で競争する時代へ変革しなければなりません。
人格で勝負する時代を迎えるには、人権を理解する教育の果たす役割は大きいです。

人権を主張する先生は多くても、いじめをなくそうとする先生が居ないのは、悲しいことです。教育者の質の問題が、どこまでも続くように思われます。
Commented by anthonberg at 2006-10-25 07:20
権利という言葉、一歩間違えると都合良く使ってしまう人が多いと思います。病院で縛る件、患者さんが自分で選択出来る、責任持てるのなら主張する権利はあると思います。すべての人が縛られているわけではないので、病院側の判断ですから家族も本人も問題ないなら主張出来ると思いますよ。私の父が癌で入院している時も縛られていましたが、私が責任を持つと言って外して貰いました。原因がなければ縛る行為はないと思います。その原因が本当の意味で危険かどうか本人が判断出来る、又は家族が責任持って管理出来るのなら病院はほとんどの病院はそんな対応しないと思います。ただ家族が何かあると病院を責めるので事故防止策として行っている気がします。絶対安全なら、縛らないでと言う権利はあると思います。権利を主張する裏には責任もすべて自分が背負うという事実が隠されていると思います。
Commented by cazorla at 2006-10-25 08:05
anthonbergさん 少し主旨からはずれていると思います。
人権のことについて話しているのです。
人権を守るのは国の仕事です。
前にも書きましたが 患者を縛るということを強いられている看護婦さんの人権も侵されているのです。 なぜ 日本の病院は一人の看護婦さんにあれもこれもとさせるのでしょうか。
看護婦さん 介護士さん の人権も守るべきなんです。
Commented by pfgia at 2006-10-25 12:21
りろさん、私たちはまったく別の人間であり、それぞれの人生を送っている訳ですが私が義務教育⇒高校教育の間に考えていたことを代弁して頂いた感じです。課されているモノに忠実になるために自分自身を押し殺していました、色々な葛藤を繰り返し精神的発達、自立を得たのは20歳を過ぎてからでした。今回のエントリを通じて私自身思い出すこともあり広義に考えさせられました。ありがとうございました。
Commented by りろ at 2006-10-26 17:22 x
pfgiaさん、こちらこそ、ありがとうございました。
Commented by りろ at 2006-10-29 11:42 x
ええとね、食の自由について、付け加えます。子どもの多動症(ADHD)で、食事療法で軽快するタイプの子がいます。それから、てんかんの子の中には、ケトン療法といって、でんぷんではなく脂肪からカロリーを取る食事療法で発作を抑えることができる子がいます。そういうのは、一般の西洋医学のお医者さんはあんまり指導してくれません。それと、子どもでも、イギリスあたりには、自分でいろいろ調べたり考えたりして、自分からベジタリアンになる決断をする子もいるんだそうです。イギリスにお住まいのある方の息子さんがそうです。そういったことも全部含めて、私は、何を食べるべきかの選択の自由というものを支持したいと思います。
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by cazorla | 2006-10-24 07:40 | おすすめのもの | Comments(20)

あなたに会いたくて・・・・


by cazorla