カテゴリ:思い出( 50 )

1996年新宿区民

ふと最近思い出したこと。
昔、内職してました。マリアが生まれてすぐの頃です。
マリアを生んだ頃、子育てが楽しくで、子育てに熱中していました。
でも、やっぱりお金がないと困るなーと。
マンションを買ったばかりだったし、生活はなかなか大変でした。
区報を見たら、区役所で内職を紹介しているとのこと。それで早速区役所に。

新宿民だったんですが。新宿というのはなかなか良い区なのです。
赤ちゃんが生まれた時に出産お祝いがあります。
マリアは木製の食事椅子をもらいました。
かなり重いちゃんとした木で、かわいかった。
エンリケは、小さなソファーベッド。
それから、幸福の木とかそういう鉢植えがもらえます。
毎年、4月28日の緑の日には、やはり植木がもらえます。
夏みかんの木とか。
あと、ベランダにお花を植えると長さ1mにつき月1000円とかね。

ちょっと話が逸れました。つまり、新宿区は区民に優しい区なのです。
お仕事はすぐもらえました。
区役所の内職斡旋の係りの人は、50歳くらいの女性でした。
すごく優しい人。お仕事を斡旋するだけではなく、相談に乗ってくれたり。
宛名書きの内職をいただきました。
単純作業が実はものすごく好きなのです。

内職以外にも、新製品のモニターをしていて、図書券をもらっていました。
今でもそういうモニターのお仕事ってあるのでしょうか。
発売前のドレッシングとか、お菓子などが送られてきて、それについて感想を書く。
そういうものが送られてくるのも楽しかった。
中には一緒に図書券、500円分が入っていて、
2000円くらいになったら、本屋さんに行って。

30代の私はそういうことが楽しかったなと、ふと思い出したのです。

1996年、武満徹が亡くなった年。
マリアが生まれて、ちょっと貧乏で、それでも楽しかったなーと。
そして、マリアは卒論のテーマを武満徹にして、世界はきっとどこかで繋がっているんだなと。
繋がっている1996年の新宿のことをふと思い出したのです。



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by cazorla | 2017-04-06 07:50 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

オレオレ詐欺

オレオレ詐欺にあったお母様の記事を読んだ。
リンクは貼り付けません。
密かにやってるブログだそうなので。
で うちの両親もオレオレ詐欺的なものにあったなと ふと 思い出した。

スペインに引っ越したのは 2000年。
マドリッド郊外のアルカラデエナレス。
セルバンテスの家のある街。
飛行機に乗るのは このカソルラに住んでからより 
はるかに簡単なのだけど
住み始めて 1ヶ月で 妊娠してしまい 高齢のため
体調不良
妊娠中毒症にもなって 末っ子誕生後も一年間 帰国できなかった。
つまり 二年間 ほったらかし状態。
今から 15年前。
父も生きていて 母は73歳くらい。
まだまだ しっかりしていると安心していた時。

久々に末っ子を連れて帰ったら
かなりやつれている。

実はね 

と母。

父の隠し子事件。
ある日 ある女性から電話があった。
『〇〇さん(父の名前。 フルネームで)いらっしゃいますか?』
『はい どちら様でしょう』
『娘です。』

ここで母は 明治の祖母に育てられたから 取り乱してはいけない と思った。

『あら こんにちは。 初めまして。』

と言ったそうな。 普通言うか? そんなこと。

私より 15歳近く上の女性。
だから 母と結婚するずいぶん前。
ある 飲み屋さんの女の人とそういう関係になってできちゃった と言う話。
そういうことがあったから まあ 否定はできないけど なんで今更 って普通 思いますよね。
男性なら いつでも 可能性を引きずって生きてるけれども。

でも母は 世間知らずの能天気だから
新しいお友達ができたみたいなワクワク感で

『じゃあ 一度 遊びにいらっしゃいな』

と言ったそうな。

それからが大変。
認知して 今まで払われなかった 養育費を払って欲しいという話に。

被害者は父。
『僕の子供って気がしないんだけど。。。』とボソボソ言う。
そりゃ まあ 50年以上前の話が ここで具体化されたら 誰でもそう思う。
裁判所に何度も行く羽目になり 検事さんに叱られて。

当時でも すでに 60に近い女性が 今更ながら認知を求めるっておかしいですよね。
普通なら 結婚前とか。
その人のお母さんが 本当に 父とそういう関係だったか?
実は 同僚だったかもしれない。

『あの 三回だけ』 と また 父がボソボソ言う。
そういうこと聞いてないんですけど。

そのあと 父は 血管が詰まって血が頭に行かないので認知症的な状態になり
手術しました。
手術は一応成功したんだけど いろいろあって亡くなりました。
母の誕生日に。

大変だったね、 パパ。

最終的には 私は DNA鑑定をしましょう と言ったら
そのまま立ち消えになった。

母になんで 電話があった時 拒絶しなかったの ってきいたら
私がずっと帰らないし 誰か遊びに来たら楽しいかなって思った
と まるで小さな子供のようなことを言う。
だから 世の中って 詐欺師がいっぱいいるんだなーって思いました。



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by cazorla | 2016-03-10 20:31 | 思い出 | Trackback | Comments(12)

我慢しちゃ ダメ

うちの母は よく 我慢しちゃダメ と言う。
我慢すると どこかで 絶対 歪みが出てくるから
自分のためだけでなく 相手のためにも 我慢しない方がいいという。
私が 小さい時 昭和40年代 のことだけれど
花登筺という脚本家のドラマが 流行っていた。
母は 苦労話が 好きではなかったので ほとんど見なかったが
たまに ぼーっとくつろいでる時 たまたま テレビで流れていて
一緒に見たことが何度かある。
主人公の女性は 一所懸命働いてるのに 夫が 遊んで お金を使い果たす。
かわいそうな 主人公。
でも 母は 絶対 そういうのをかわいそうだとは言わなかった。
ほらね 我慢してるから 歪みができて 夫は 遊ぶしかないの。
かわいそうに 自分の人生が見えないんだ この男の人は。
それぞれが 自分の好きなことをすれば良い と言う。
嫌だったら 別れればいいと。
その考えも 条件によるし
最上とは 言えないかもしれないけれど
それでも 人とは違う見方ができるんだ ということを学んだ。

息子二人は 1998年生まれと2001年生まれ。
上の子のお母さんたちの方が はるかに若かった。
たまたま 下の子のクラスは やっと 生まれた一人っ子とか 忘れた頃にやってきた 末っ子とかで
小さな子供のクラスで 私は (幸いにも) はるかに年の離れた母親には ならなかった。
幼稚園時代 一番若いお母さんで 32歳。みんな 40前後。
でも 長男の方のクラスは お母さんたちがやたら若かった。
幼稚園時代 私は 40をとうに越していたが 他のお母さんは 20代。
幼稚園時代から 小学校2年生くらいまでは お誕生会をする。
都会に住んでいると 小さな子供を読んで 飛び跳ねさせる場所がないので
マクドナルドとか そういう場所になるが
田舎では 自宅でする。
若いお母さんたちは クラス全員を招待していた。
ガレージでするので 何人でも呼べる。
でも 若くない 末っ子のクラスでは 全員は呼ばなかった。
だいたい 仲の良い友達。
体力がないのも一つ。
もう一つは 『みんな仲良く。』 という教育が学校時代にしていなかった。
時々 週末に 末っ子は ちょっと悲しげだった。
眠る前に ポツンと
『あのね 今日は 〇〇のお誕生会だったんだけど
僕と ジプシーの 〇〇と モロッコ人の〇〇だけ 呼ばれなかったの。
みんな 集まって 遊んだんだ。』
と言っていた。
末っ子のことだから ますます 私は 胸がキュンとなって
夫に 報告していた。
でも 夫は 『自分の家で パーティーをするんだ。
嫌な やつは 呼びたくないのは当然だろ。』
と言う。
そりゃあ まあ そうなんだけど。

結果としては 末っ子は その後 大きくなる過程で
全く いじめにあわなかった。
長男の方が 中学の最初の年
まだ 背が高くなっていない頃は 苦労していた。

やっぱりね 無理しちゃ いけないのかもしれない。
嫌な奴とは付き合わない それでいいじゃないか と思う。

先日 久々にいじめ時代を思い出したのは 週末に来て ドアを叩いて 怒鳴る声で。
プート チノ   と 叫ぶ声。 走り去る音。
最終的には ケチャップかけ で 幕が閉じた。
ケチャップをかけにきたのは 一人だったかもしれない。
とにかく それで 幕を閉じた。
その程度のことで 気持ちが 落ち着くのであれば やればいいと思う。
彼らの心に
というより 人生に 何か もっと素敵なことが起きればいいのに と思う。
でも もしかしたら すっきりした気持ちで 前向きに 考え始めているかもしれない。

仲良くなんてしなくていいと思う。

よく 日本語に タコスはあるか と訊かれる。
つまり 前述の プート みたいな。
日本語 に ある?
くそっとか くそったれ とか 
でも 日常会話で 聞いたことない ですよね?
小綺麗に 整った社会だと思う。
だから 多分 歪みは あるんじゃないかな とも。

スペインに引っ越そうと思ったのは あるお母さんのある言葉が きっかけだった。
長女が 公園で 友達と遊んでいる時。
確か 三歳の時。
滑り台の上に女の子3人くらいで並んでいた。
その時 
『あああん 嫌だー マリアちゃん
うちの子の隣に来ないでェ 
ブスが目立つ』
みんな 笑った。
でも 子供達は 笑ってなかった。
言葉は 柔らかだった。
言ってる本人だって 悪気なんて ちっともない。
そして それは つまり 『マリアちゃんはかわいい』と言ってることなんだから
言っていけないことではない と思っている。
ああ だから マリアには 女の子の友達がいないんだと思った。
ゆいいつ ものすごく仲の良い友達は オーストリア人のお父さんを持つ ハーフの同い年の女の子。
二人はいつも一緒で 大きさも全く同じで 双子? なんて よく訊かれていた。

顔の作りが ちょっとだけ 違うんだよね。
どっちが 可愛いとかじゃなく。

ほんのり オブラートで包まれて 攻撃性の全く見えない排他性の方が 
体の中で 効き目を待つ毒のように 危険だ。
だから 私は やっぱり スペインに引っ越してきて よかったと思ってます。
たとえ ケチャップを ドアにかけられても。






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by cazorla | 2015-12-18 19:25 | 思い出 | Trackback | Comments(10)

牧神たちの午後

コンセルバトリーの最高年齢の劣等生。
試験勉強中です。
今日は エスティーロ (スタイル)の試験で 
楽譜を見て 分析して 特徴などなどを 書く試験。
試験勉強中なのに こんなの作ってみました。


ドビュッシーの プレリュード。 牧神の午後

我が家の二人の牧神の写真。 



ダン ギブソン Dan Gibson  バージョン。
電子サウンドだけれど この写真整理しようって。
アルバロの写真が多すぎ。
しつこいから 少し へらせと言われたけど そのまま。

写真は 4月です。
早く 春にならないかなー。


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さ 勉強しよ。


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by cazorla | 2015-12-01 19:57 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

経験がないと 想像する にしても限界があるんだな と 子供時代を思い出して考える。
なぜか ずっと心の隅に残っている言葉。

小学校の教室には二つ黒板がありました よね?
昭和40年台の小学校。
1967年。 チェコのプラハの春よりも前。
授業に使う 真ん前の黒板と 窓の正面の壁の連絡用の黒板。
連絡用の黒板に書かれたことば。

『上村くん(仮名)は パンツをはいてきてください』

違和感があったから そのことばが残ってる。
それは 小学校一年生の教室。
上村くんはいつもニコニコしていた。
なんとなく 大人な イメージがあった。
当時は クラス名簿というのがあった。
多分 今は無くなってるはず。(ですよね?)
個人情報保護法施行の後 無くなったと思う。
クラス名簿には 生徒の氏名 両親の氏名 職業と住所 電話番号。
やたら 国家公務員が多いクラスだった。
そして上村くんは お母さんとは苗字が違ってた。
でも それが何を意味するのかは よくわからなかった。
うちの母なんかもきっと そういうことは考えたこともないと思う。
そういうことに無頓着な人だったから。

でも 今 想像する。
上村くんとは あまり遊ばないようにしなさい と
言うような うんざりするような親がいたに違いないと。
私は 人とうまく付き合えない 昭和40年には少数派の一人っ子だったし
口も重くて ことばが出てこない。
そんな私と 上村くんは話していた。
私が おしっこを教室でしてしまった時も
まあ そういうこともあるわな と達観していた上村くん。

そういう大人の上村くんに対して
先生が 40歳くらいの いかにも教師的な女性だったけど
連絡用の黒板に書いたことば。

『上村くんは パンツをはいてきてください』

今 想像する。
お母さんが疲れていて 洗濯物がたまっていても
上村くんは何にも言わなかったんだと。
まだ 自分で洗うには 7歳は 小さすぎた。

クラスの男の子が 『お前 ぱんつはいとらんのか』と笑っても
女の子が さも軽蔑したようなしかめ面をしても
やっぱり 笑っていたし 相変わらず パンツを履かない日の方が多かった。

もしもその先生に想像力があれば 黒板にそんなんことは書かなかったと思う。

私は 人前で話せない子供だった。
話そうとするとうまく息ができなくなる。
ある日 先生が 浦島太郎の話を知ってる人は手を上げてと言った。
私は (もちろん)知っていたけど手を上げなかった。
『前に出て話したりさせないから 知ってる人は 手を上げて』
と言ったので しょうがないので手を上げた。
すると すぐに私を当てて 『前に出て 話しなさい』と言った。
騙したのだ。
私は前に出て 話そうとしたけど 声が出なくて 息ができなかった。
先生はしょうがないので 自分で 話して ところどころで 私に 『そうね?』と
確認して その度に 頭だけで頷いて そして席に着いた。
その時の 体の感覚を未だに覚えている。
あえて 子供を傷つける必要がないのに
傷つける
とは言わずに 教育という。

私は今では 結構 人前で話すのも平気になったし
ラジオに出て 馬鹿みたいにしゃべったりしたこともある。
でも 先生のおかげです ではなく 単に歳をとって そういう時代に入っただけ。
多分 上村くんも今では パンツを毎日履いてると思う。
そして まあ ああいうこともあったなーとニコニコしているに違いない。
そうだといいなと思う。


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同じ時代のスペインの子供たち。
この遊び 今では 禁止になっているそうです。





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by cazorla | 2015-11-08 08:47 | 思い出 | Trackback | Comments(23)

コルドバで 勉強してる娘が夏休みで帰ってきた。
犬さんを連れて。
その犬って 一緒に住んでる ダミアンのではなかったの?
でも まあ 想像してました。
しょっちゅう Facebookに写真を載せてるし。
チワワと アンダルシアなんたらという種の雑種。
私は思わず げっ 醜いやん と心ないことを言ってしまいました。

母は昭和2年生まれ。
ちょうど 娘くらいの時は 戦争が終わりつつある時期。
そういうときに 雑種の犬と仲良しになっていた。
うちでは 兄(私の叔父)が 雑種を好きではなかったので
飼うことができず それで町をうろうろして 
毎日 母が お風呂を沸かすときに来ていた。
昔のお風呂は 母屋からちょっと遠くにある。
そして 戦時中は薪の質が良くないので ずっと火の番をしていなければならない。
ハンカチーフで 髪を束ねた母の背中にそっと寄り添う その犬の写真が一枚だけ残っている。
名前をマリと言う。
その犬の眼差しに 娘の犬は生き写し。

だからか 母は一目見るなり
なんてかわいいの
と うっとりした。
娘は勝ち誇ったように 
『ほらね ミカンはかわいいのよ』 と言う。
そう ミカンというのが この犬の名前。
mikan。
娘はアレルギーがあったので 主なる食べ物は 母乳だった。
でも 2歳のときに私が妊娠したので授乳し続けることが困難になった。
娘は苦しんで おっぱいが恋しくなるとミカンを狂ったように食べた。
娘は ことばの遅い子供であったので
みかんとすらすらとは言わず 『み』と『ぴ』の間の音を強く発音し
ピッカンと聞こえた。
一度に五つも六つも食べた。
みかんが 母乳の代わりになるのかどうか
その形が おっぱいの形に似ているからなのかどうか
口の悪い友人は 私のが小さいので 同じ形のものだと思っているのだと言う。
息子は ごく自然に 母乳をやめると同時に牛乳を飲み始めたが
娘は 牛の乳は アレルギーだったこともあって みかんになったのかもしれない。

みかんは 失った愛を取り戻すおまじないにも似ている。



そして 今日は 母の誕生日。
娘と息子二人 そして ミカンと お祝いをした。
88歳 米寿です。



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少し小さくなった母。






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by cazorla | 2015-06-21 02:15 | 思い出 | Trackback | Comments(14)

とりのさえずり

余ったパンを 鳥にあげている。
台所の窓の ラベンダーの鉢に パンを置く。
見ていないけど 知らないうちにパンはなくなる。

今日はすっかりわすれていた。
鳥が来て 大きな口を広げて
一言だけ

ぴーーーっ

まるで抗議してるみたい。

はいはい すみません。
わすれてました。


忘れていた思い出。

子供時代 鳥を飼っていた。
メジロだったけ?
小学五年生くらいの時。
昭和40年代。
終戦のにおいが消えて すこしずつ 素敵な生活を模索していた時代。
友達の家で カナリアを見た。
かわいい声で鳴く。
黄色がきれい。
家に帰って 鳥が飼いたいと言う。
父がわかった と言って 次の日曜日。
山で鳥を捕まえてきた。
竹もとってきて 細く切って
鳥かごを作った。

そうじゃなくって 白い鳥かごが欲しかった。
白く塗った鳥かご。
黄色いカナリア。
それから ペット屋さんで買う ペットフード。

えさは すり鉢で 大根の葉やゴマや雑穀を練って作った。

父は大正生まれの田舎育ち。
今思えば 最高に贈り物だ。

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子供たちが たまに けがをした鳥を拾ってくる。
世界に戻っていく子もいるし
そのまま死んでしまう子もいる。

死んでしまうと 山で死んだほうがよかったのでは
と いつも 憂鬱な気持ちになる。





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by cazorla | 2015-02-18 00:45 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

初恋ではないけれど

母の家でひさしぶりに小学校の入学式の写真を見た。
ほとんど 誰が誰だかわからなくなっている。
私のことを 優しく世話してくれたすぎもとさんは とってもおねえさん だと思っていたのに
今見ると やっぱり 七歳になろうとしている ちいさな女の子。
あたりまえだ。
あんなに小さかったんだ。
そして だからと言うべきか
中学まで一緒にいた人がほとんどなのに 名前を思い出せない。
積極的に遊んでいたような子供ではなかった。
どちらかと いうと いじめらっれ子。
まだ 昭和40年代は いじめが深刻ではなかったので
もっと あとに生まれて入たら 確実に 徹底的にいじめられていたと思う。
その中で 等身大で フルネームで すぐ わかるのは ゆーじ君。
記憶の中 そのもの。
たぶん 一年生の半ばで引っ越してしまったので
成長した姿を見てないからだろう。
そして やはり 忘れられない存在だから。

国語の時間に 一番好きな友達のことを 作文にする宿題が出た。
たいてい 女の子は女の子を  男の子は男の子のことを書く。
たいてい 二人組で おたがいのことを書く。
私は特別 仲良しの友達がいなくて ゆーじ君のことを書いた。
私には それは とても ナチュラルなことだった。
昭和四十年代の地方都市で。
出だしも覚えている。
「私の好きなおともだちは N ゆーじくん です。
かれの 髪の毛は 明るい茶色で とてもやわらかいので さわると とてもきもちがいいです。
かれの 目は大きくて まつげがながく その目を見ていると うれしくなります。」

と言うような感じで ずっと続く。
だからといって どきどきしていたわけでもなく ごく 自然に一番 話しやすかったというだけだ。

先生が 上手な作文を 何作か読んだ。
私の作文も 読まれた。
女の子たちが いじわるな顔で振り向いて 私を見た。
男の子たちが笑った。
その時 初めて 普通はしないことをしてしまったんだと気づいた。
なんだか ゆーじ君に 悪いことをしたのかな と思って 彼の顔を見ると
ゆっくりと 長いまつげをゆらしながら にっこりと笑った。
そして いつものように 私たちは一緒に下校した。

ゆーじ君の家は 学校と私の家の間にあった。

ある日 ゆーじ君が「今日は おかあさんがいないから うちに来れば」と言ったので 遊びに行った。
おかあさんのことは知っていたし たぶん いるときにも お邪魔したことがあったと思う。
でも それは特別な 「ご招待」だった。
彼の虫眼鏡のコレクションをずっと見ていたのだけ覚えている。
信じられないくらいたくさん持っていた。

それから すぐに 引越しして 学校が変わっていなくなってしまった。
でも そのことを 悲しいと思うには 私たちは とても小さかった。
一緒にいるのが 当然と思っていたのと同じくらいに
引っ越していく と言う事実も 当然なできごととして 受け止めた。
そして 私は また 友達がいなくなった 中学に入るまで。

なんとなく 一緒にいるのが 自然な相手というのは そんなにたくさんいるわけではない。
知り合う時期も大事だと思う。
二十すぎて知り合えば そのまま 当然のことのように結婚したりするのだろう。
もっと 年をとって知り合えば 困ったことに 子供をすててまでも 一緒になりたいと思うのだろうか。

今 振り返るとなんとなく分かることがある。
彼も一人っ子だった。
両親の離婚問題でごちゃごちゃしていて そして最終的に 学年の途中で引っ越してしまった。
いろんなごちゃごちゃがあったし 髪の毛があかく 繊細なからだつきの彼は
男の子と遊ぶより わたしと しゃべっているほうが 楽しかったのだと思う。

先日 村上春樹の「国境の南 太陽の西」を 読み返して
まだ おさない時代の恋ではない ただ しっかりとつながりあえる 相手の存在のことを
ふと 思った。
三十歳くらいで再会していたら どんなふうに 人生は変わったのだろうか
と 少しだけ夢想した。

わたしたちは ひとりっこ だった

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by cazorla | 2014-02-10 17:16 | 思い出 | Trackback | Comments(11)

やっと夏が始まった。
ツバメが飛ぶ。
今日はプールで 1,000メートル。゛
背泳ぎで泳ぐと 空が見られる。
青い空に 数え切れないツバメ。

以前はよく 子供達が ツバメを拾ってきた。 
こつばめが 巣から落ちる。
そろそろ 飛べると過信して。
そのままにすると猫に食べられるから。
でも 肉食の鳥は難しい。
雀は 難しくてもなんとかなる。
たすけた雀がよく パンをほしくて 窓をたたいていた。
だから 鳥を見つけるたびに連れてきた。
でも つばめは無理。

はえを 一匹 一匹 とればなんとかなるかもしれないが
それだけのために生活しているわけではないし。
子供達はしばらくすると 友達と出かけていく。
私はつばめと残る。

だからね もうつばめを連れてくるのはやめてね。

それから何年たつだろう。
つばめを見るたびに なつかしいような
ちょっとせつない気分になる。
連れてこられても困るが
それでも あの時代の空気が私をどこかにいざなうのだ。

こういう時代。なつかしく なんてかわいいの

昔 住んでいたマドリッド郊外のアルカラ・デ・エナレスには たくさんこうのとりが住んでいた。
こうのとりが スペインにたどりつく季節だ。 たぶん。
もう記憶があやふや。
冬にはアフリカにもどる。
こそだてのためにヨーロッパにくる。

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窓の外。
夜 12時をすぎた 私の町。
それぞれの屋根の下 それぞれの幸せ 愛 ことば。
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by cazorla | 2013-06-24 02:59 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

かなしみよ こんにちは

悲しみ って 突然 やってくる。

かなしみよ こんにちは

サガンの小説は少女ちっくか?
あるいはそうかもしれない。
でも この小説がいつまでも残ってるのは
やはり真実を表現してるから。

そして 悲しみよ こんにちは
という題名で 日本では めぞん一刻の主題歌にもなってるし
スペインでは パントッハというコッポラ つまりスペインの演歌歌手が歌ってる。

ある日 悲しみに出会って 少女時代に お別れを告げる日が来る。
ものすごく大きな悲しみの場合もあるし
ささやかなちっぽけな悲しみ という場合もあると思う。
それでも その大きさは 人が計って そういうのであって本人には
とてつもなく大きな 悲しみなのだと思う。


悲しみよ こんにちは



この映画を私は おそすぎる 少女時代への別れの後で見た。
どうしようもなくて テレビをずっとつけっぱなしにして なにもしていなかった 日々だ。
そういう時期があった。
どのくらい長く そういう状態になっていたのか わからない。
二ヶ月はほんとになにもしなくて ただ 目が乾いていて 乾いた目が
閉じられなくて でも 悲しいのか どんな気持ちなのかさえもわからず 
ただ テレビを見ていた。 コメディもニュースも ドラマもすぺて。
夜中の映画放送で 悲しみよ こんにちは を見た。
それ以外はなにも覚えていない。




この歌が何度も何度も 頭の中に響いた。
レコードを買った。
ずっとあとになって コンサートにも行った。

とてもとても大好きな人がいた。
ほんとに大好きで
その人がかなり傷ついて 死んじゃうのかもしれない
そのことが とてもつらくて 一緒にいた。
私は 自分がこの人を地球に
この私の住む地球につなげていられる そう信じていた。
まだ 子供だった。
私よりずっとずっと年上の大好きな人が傷ついて 
どうしようもないと思っている。
それでも 私は 私がつなぎ止めると信じていた。

夜中に電話があって
静かな夜 
電話の向こうでは 車の音
その15分くらいあとに事故があって

自殺だったと思う。
でも 事故として処理された。

からだが乾いてしまって
目が閉じられなくて
涙なんて 一滴も出なかった。

そういうのが悲しみなのだと 初めて気づいた。

それは 遠い昔。

私は彼に見られているのが好きだった。
私を見て 一瞬 空気がゆるむのが好きだった。
目がゆるゆると 笑い顔になった途端に それが湖になって
すぐにおさかなになってしまうのが好きだった。

まるい空気

丸い空気に包まれて
疑うことを知らない
それが私の少女時代。

あの小汚い 十三の町のラブホさえ 私には すてきなおとぎ話のお城だった。

たのしかったね
と 今は言える。
今は 悲しみでかさかさになったあとに 長い沈黙のような空間があって
そして やっともう一度 あの時代を とても美しい絵を見るように思い出せる。




こんな日はあの人のまねをして・・・・


一度は 書いておきたかったこと。
書いておきたかったことはつづきます。
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by cazorla | 2013-06-07 00:38 | 思い出 | Trackback | Comments(6)