カテゴリ:思うこと( 126 )

1990年に初めてスペイン旅行をした。
地球の歩き方が流行っていた時期。
地球の歩き方が地球の転び方と呼ばれていた頃。
HISが格安旅行券を売り出して、私もそこでアエロフロート航空で出かけた。
トイレットペーパーが分厚くてほとんどオーブンペーパーのようだった。
ソ連の飛行機。
座席の通路が狭くて、ソ連人のスチュワーデスさんが通るたびに肩を少し内側に入れなくてはならなかった。
日本人スチュワーデスと全く違う、大雑把な対応。
機内食に関しては何も覚えてない。
不思議なくらい何も記憶に残っていない。

周りには日本人がたくさんいて、どのくらい旅行するの?とかいろいろ話していた。

当時は、まだ飛行機で喫煙できていた。
どちらかといえば、喫煙者の方が禁煙者より幅を効かせていた時代だ。
禁煙席を選んだが、私の一つ前の席は喫煙席。
ほとんど禁煙席の意味がない。

旅行前に風邪をひいていた。
なんとか、熱も治り、咳も止まっていたのだが、前方から流れる煙で咳がまた出始めた。
下手をすると、咳が止まらなくなる可能性もある。

こういう時、普通はどうするのだろう?

私はスチュワーデスさんに相談した。
席を替えることが可能かどうか、とにかく酷いほど咳がで始めた。
スチュワーデスは前の席に座っているグループに話した。
彼らはスペイン人だった。

そのあと、彼らはタバコを後ろの別スペースまで行って吸うようになった。
おかげで咳も止まった。
スチュワーデスさんが、飲み物をひっきりなしに持ってきてくれる。
毛布を持ってきて、くれる。
飴を持ってきてくれる。
そうやって、やっと落ち着いたとき、周りの空気が変わっていることに気づいた。

「日本の恥だ。」
と誰かが言った。
それが私に向けて言われているのか、すぐにはわからなかった。
「非国民」と誰かが言った。
「信じられない!」ともう一人が言った。
そしていくつかのののしりの声を聞いて、それから日本人乗客たちは誰も私と口をきかなかった。

マドリッドに到着して、スペイン人たちが口々に体に気をつけて旅行するようにと言ってくれた。
タバコを吸う人も吸わない人も、みんなが口々に挨拶して、軽くハグをしてくれて、別れた。
スチュワーデスさんも、体に気をつけて、良い旅になりますようにと言ってくれた。
日本人乗客たちだけが、私を冷たい目で見ていた。

私はずっとこのことが心に引っかかったまま過ごしてきた。
もう30年近く昔のことだ。

引っかかっている。そして答えが見つからない。
夫に話してみた。

「それはね、日本人は我慢しなくてはいけないと思っている。
特に相手が欧米人だとなおさら我慢して何かをいうのはタブー。
僕はなんてたって、10年以上日本の外務省で働いてるからそういうことはよくわかる。
君は日本人なのに本当に日本人の心を理解できないね。」
そう言って夫は笑った。

我慢しないから日本人の恥?
やっぱり相変わらずわかっていません。
無駄な我慢は何の解決にもならないと言われて育ったので、やっぱりわからないまま歳をとって言ってます。
幸いなことにスペインに住んでいるので、あまり問題も起きないで誰かに怒られたりしないままに。

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写真は最近のマルタ島行きの飛行機


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by cazorla | 2017-10-13 06:23 | 思うこと | Trackback | Comments(6)

某ブログで、父親であるブログ主さんが家族の洗濯をして干す。
当然、20歳くらいのお嬢さんの下着も干す。
これに対して、「母親」が「恥じらい」を教えるべきではないかとコメントが入っていた。

恥じらいって何?

日本女性の恥じらいとか言って、これは日本の女性独自の文化のように感じている人も多いようだ。
本当に日本女性って恥じらいがあるの?
下着問題と恥じらいは、少し別問題なのではないかと感じる。
ここの辺はすごくややこしいので一つずつ検証した胃と思います。

恥じらいというのは「個」の認識だと思う。
自分がどういう存在か。それは「他者」の認識と対をなしている。
他人がいなくては恥ずかしいという気持ちは生まれない、もちろん。

足を広げて座るのも、電車で化粧をするのも、他者を意識していないから。

マドリッドのティッセン美術館は私立であることも関係しているのか売店で素敵なものがリーズナブルな値段で売っている。
ちょっとしたお土産にもオススメな小物が多い。
美術館そのものは印象派が多いので、そんなに煩雑に行かないが、たまに売店に入る。
売店は人気があって、結構繁盛している。
いくつか選んでレジに並んだ。結構、待たなくてはいけない。
後ろに並んだノルウェーから来た青年とおしゃべりしながら待っていた。
すると、日本女性が当然のように私の後ろに割り込んで来た。

私も彼も並んで待っているのにどうして割り込んでくるの?ときいてみた。
すると、その質問にびっくりしている。
「並ぶべきじゃないかなー? 割り込みなんかしたらよくないよ。」
「私たち同じ日本人でしょ!」と答えが来た。

この人たちは、日本では(たぶん)割り込みなんてしない。
でも、スペインで私という日本人をみて、全く良心の呵責もなしに割り込んで来た。
これは「個」の消失。
または、私と彼女たちは同じ日本人というくくりで、「個」の広がり。
私のことを他者とは思わなかった。
「私たち同じ日本人でしょ?」という言葉がそれを表している。

割り込みはよくないというと、時間がないという。
時間がない。せっかくスペインに15時間もかけて来たのに云々。

どちらにしてもそれは後ろに並ぶ人たちに、許可を求める問題。
スーパーのレジなんかでもよく、「今から子供を迎えに行かなくちゃいけないから、先に払わせて!!」とどなるママたちがいる。もちろん優先。

最終的には、日本人観光客用の別レジができて、そちらで支払いをして大急ぎで出て行った。

恥じらいは教えるもの?

前述した女性たちは、多分1950年くらいに生まれた人たち。
当然、「恥じらい」教育は受けてる。嫌になる程。
多分、最近の子はまたを広げて座ってけしからんなどと言ってるかもしれない。
それでも、堂々と割り込むなんて、恥じらいなんてないでしょ?

教えても無駄なんじゃないかなと私は思う。

それより、「個」の確立、他者とは違う自分の存在を認識すれば、どういうシチュエーションでも「恥じらい」のある行動はできると思う。

というふうに書いていてふと思ったんだけど、「恥」という言葉はだいたい「日本の恥」とか「家の恥」という感じで使われますよね?
「個」が家や日本という広範囲に広がって認識されているのが日本に置ける恥の本質かもしれないと思いました。

下着を見られるのは恥ずかしいこと?

下着を見られることは恥ずかしいことがどうか。
他人に下着を見られるのは恥ずかしいこと?
もし、勝手に下着を入れた引き出しを開けて、見られるとイヤですよね?

なぜか。

ずいぶん昔のテレビ番組。1970年くらいです。大昔。
久我美子だったか誰かが死を宣告されて、パンティを切り刻む場面が私の脳裏に深く残っている。
70年代はガンになったらほぼ絶望的だった。そんな時代。
70年代はほぼ福助のパンティを履いていた。そんな時代。
白い木綿で、使っていると黄ばみが出てくる。そこんとこを死んだ後にそれがたとえ家族であろうと娘であろうと誰にも見られたくない。それはとても恥ずかしいこと。

死んでいく怖さに比較したらそれは大したことではないかもしれないけれど、確かに大事なこと。
パンティを小さく小さく切り刻む。
そういうちょっと見られては困る、今、突然、交通事故に遭ってしまったら、見られては困る下着が引き出しには一つくらいあるでしょ?

これまた、ずいぶん昔、フランソワーズ・モレシャンというフランスのおしゃれ評論家だかなんだか、
色々な本を出して、フランスの女の子はどういうふうに日常のおしゃれをするか書いていた。
もちろん、私も一所懸命読んだ。
そこには、万が一に備えてレースのついた可愛い下着をいつもバッグに忍ばせておくこと、と書いていた。
万が一とはつまり、愛の一夜が突然起きるかもしれないということ。
なるほど、と私の頭にしっかりインプットされ、ほとんど無駄だったけど、レースフリフリパンティはいつも私のバッグの中にあった。
これはね、身につけている下着は、もしかして臭いがあるかもしれない、シミ(何かの!)があるかもしれない、古くてヨレヨレかもしれない、というような理由でちょっと「恥ずかしいもの」なのです。
当時はまだ「勝負下着」なんて言葉もなかった。

でも、同性の家に泊まることになっても、やっぱり予備の下着を持っているというのは大切な習慣。
同性が見てもやっぱり「恥ずかしい」。

父親が下着を干すこと

前述のブログの話に戻ります。

父親が下着を干すことについて、もし抵抗があるとすれば、それはなぜでしょう?
それと恥じらいって関係あるの?

コメントで「母親は娘たちに恥じらいを教えるべきだ」というようなことに対して『でもね、子どもがオムツしてる頃から僕が洗濯してるんで、子どもにとっては今さら違和感ないんでしょうね。」という答え。
つまり、父親を他者とするかどうかがここでは問題になるのではないかと思います。

父親がいつも家にいなくて、寝るのが早い子供は下手をすると週末しか会えない。
すると父親は、週末の「訪問者」としてインプットされる。
そもそも母親を「他者」として認識するのはかなり成長してからです。
お尻が気持ち悪いなーと思うとオムツを替えてくれる母親は自分の一部。
鼻がかゆいから指でかく、それと同じ。
鼻をかく手は自分の手。それと同様にオムツを替える手は「自分」の手。
そこには他者認識がないのです。

うまくいっている夫婦の子供が最初に発する言葉は「ダディ」だとアメリカの研究報告があります。
それは、生まれた初めて認識する「他者」だから。
人の名前を呼ぶ、というのは他者認識。自分のことは呼ばない。だから、ママはその後になる。
うまくいってない夫婦に当てはまらないのは父親は排除された「他者」だからだそうです。
もちろん、全てが日本の家族に当てはまるとは限らないのですが。

ところが、父親が甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をしているとそれも変わります。
父親を他者だと思えない。
個が確立した後も、ファミリーとしての認識がずっと強く、下着を干されていも違和感がない。

つまり、父親が自分の下着を見ることに違和感がある女性は、父親が自分を性の対象として見るかもしれないという恐怖もあるのかなという印象があります。

だから、これは「恥じらい」の問題ではなく、父親の存在がどういうものか、という、娘にとってどういう位置付けがされているかということなんじゃないかと思います。

息子が下着を干すこと

うちでは息子も洗濯物を干す。
もちろん、娘の下着も私の下着もある。
別に息子にだけ干させているのではなく、娘だって干す。
家事のローテーション。
男女平等ということもあるけど、息子に下着を干させると別のメリットがある。

つまりちょっとやそっとの下着で異常に興奮しない男になる。
人生、しょうもないことでダメにしてしまう人って多いでしょ?
脚を組み替えて、チラチラ、バサンバサンと見せて誘惑してくる女子を無視して欲しいです。
だいたい、下着フェチにもならない。(ちなみにスペインにはほぼ下着フェチはいません。)

洗濯物を干すのは、10歳くらいからしてるから全然抵抗はないようです。
余談ですが、うちの息子と結婚するとメリットいっぱい。アイロンかけも上手だし、ボタンくらいはつけられる。

うちの娘の恥じらい教育

なんてしてません。
反対に私がされることもある。
スパッツを履いて掃除をしていると、「ヴィーナスの丘」が見えるから隠すべきだとしつこい。
田舎のカトリック社会で育ってるから。
家の中だからほっといて欲しいんだけど。

(注釈:わかりにくいかと思いますが、イスラム教もカトリックも基本の根っこは同じところにあるせいか、キリスト教も体の線を出すことがタブーだった時代があります。あのハーレムパンツのようなものがイスラム圏で着用されるのもヴィーナスの丘が見えないための配慮。つまり、ジーパンもNGなんです。ここは中世かと思うんだけど、とりあえず、娘の意思には従ってました。ただし、家の中でまで言われるのはいやだ!最近、娘も都会で学生生活を送っているので、今では普通にジーパン履いてます。)

恥じらいっていうのは社会的な問題かなと思う。
というか社会における自分の存在の認識。
あと、テレビの普及で対象との距離が測れなくなっている。
世界認識がテレビ画面と同じ。
目の前にいる人を、テレビの画面と同様に見る。
これは世界共通だと思う。

電車でまたを広げて眠ってる女子高生の恥じらい云々とかよく書いてるけど、結局、家でテレビを見ている時と状況が変わらないのだと思う、外にいるという意識が少ない。

だから、恥じらいなんて教えてもしょうがないと思う。
教えても、日本の外に出て、割り込みするような恥知らずな行為に出てしまう。
ただ、自分は一人の人間で、外界とどう関わっていくかを認識させることしかできないのではないかなと思います。

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by cazorla | 2017-10-11 16:43 | 思うこと | Trackback | Comments(9)

おーやまさんに久々コメントもらったからってわけでもありませんが、以前書いたニーハルについてトラベルクリップで記事をアップしました。(おーやまさん、こちらにも海の写真はありません)

ミミズさんに笑われたからってわけでもありませんが、できるだけ自分の文書で書けるといいなと思って最近いろいろ考えているのです。そして、このニーハルという、スペインにわざわざ来たらやっぱりアルハンブラのグラナダとかメスキータのあるコルドバに行くから、まず、行こうなんて思わないような町について、読んで楽しいと感じてもらえる記事にしたいなと。

そういう意味では、この記事なかなかいい記事ではないかと自画自賛してしまうのですが、どうでしょう?
最初は、ニーハルの記事は1500文字くらいの小ぶりの記事にする予定で描き始めたんだけど、書いてるうちに楽しくなって、3000文字と少し。実は、ホテルの認知症のおばあさんの話も入れたかったんだけど、長くなりすぎるような気がしてそれはカット。

この記事で紹介しているホテル。2年前に1度泊まって、とにかくテレビがないという点が気に入ってるんですが、オーナーはお母さんが認知症になって、介護しなくてはならないから、ホテルを2年前に始めたそうです。でも、とても静かで徘徊もしない、ただ座っているだけの認知症。いろいろなところにいろいろな物語がある。

ここ数日、夫はノートに図面を描いてます。
新しい家の図面。
え、引っ越すのーなんて聞かないでください。今は、家を買おうにもお金ないし。
ただ、ニーハルか、その周辺で家を建てる計画を一人でしてるだけです。
そして、なぜかその家にはグランドピアノがあって、かなり広く、パティオが二つもあるし、

グランドピアノ
息子の学生寮に置くグランドピアノは買いました。
100万円くらいの中古のでいいじゃんと思っていたのだけれど、結局、弾き比べて、それからあの練習量に耐えられるピアノということで、予算オーバーもオーバーで日本円で200万超え。
でも、なんでスペインはグランドピアノがこんなに高いんでしょ?

で、半分借金して、どうにかこうにか。
息子に、人生が嫌になったらこのピアノ売って旅に出るといいよ、と言ったらにっこり笑っておりました。
ピアノを持っていると、そういう選択もありなんだ、いいよねー。




本当に好きな記事なんで読んでください。


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by cazorla | 2017-09-10 07:31 | 思うこと | Trackback | Comments(10)

カソルラに住んで15年になります。
すごい!
一箇所にこんなに長く住んだのは、初めてではないかと思います。
15年住むと0歳だった子供も15歳になっちゃうんですよね、当たり前だけど。
知ってる顔の女の子が赤ちゃんを連れて歩いてるのを見たり、元気いっぱいだったおばあさんが、介護の人に付き添われて歩くようになったり。
15年の歳月はとにかく長い、重い。

日本にも10年帰国してないので浦島状態ですが、日野さんも74歳、立派におじいちゃんになってる。


これをFacebookで紹介していたのは、茶髪のバイオリニストNaoto氏。
かっこいい
と。
そうだ、Naotoも髪染めてかっこいい男の子だけどあれだけ弾けるようになるまで相当レッスンしてきたんだな。
素直に日野さんをかっこいいと言えるのは、真剣にやってきたからでしょ。
燃えるジジイになった日野さんに乾杯。

ただねー、これ見て勘違いしてるじいさんやおっさん、特に中学の先生が生徒叩くのはやめてくださいね。
叩くにはそれだけの、人格と愛情が必要です。
未だに、中学の時殴った先生のこと嫌いですもの。

でも、日野さんはかっこいい。

トラベルクリップの記事で、スペインの城シリーズというのを始めました。
意外と好評だと思います。
第一回は我が村カソルラから。




15年見続けてきたカソルラの城。

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by cazorla | 2017-09-05 00:29 | 思うこと | Trackback | Comments(6)

ふるさとはとおきにありて思うもの

「ふるさと」を持たなかった。
私が育った街は、父の故郷でも母の故郷でもなく、私たちは「よそもの」だった。
母はその土地のことばを嫌ったので、私はできるだけ使わないようにしていた。
多分、全く使っていなかったと思う。
ふるさとに実は憧れていた。

江戸っ子は三代目からというけれども、東京のように外から来た人の多い地域では意外とふるさと感覚を持ってしまう東京生まれは多いのではないだろうか。
そして、東京も東京をふるさとと呼ぶことを寛大に受け入れてくれるのではないかとそう思っている。
私は結婚を機に、戸籍を独立し、私の戸籍は東京になっている。
20年住んだ東京。
長女も長男も東京で生まれた。
だから、スペインの身分証には私のカードにも長男長女のカードにも東京Tokioの文字がある。
育った土地よりも東京が懐かしい。
それはふるさとを持たない人の感傷だろう。

遠藤周作氏が著書の中で、自分に自信がない人は父親や母親の自慢をする、
父親がたいして自慢にならない場合、祖父母、おじおばを。
それでもダメなら、先祖。
それも持っていなければ、平氏だ、源氏だと言い出す。
たいていの場合、どっちかに入るのだけれどそれでもダメだと、日本国。
そして右翼になる。

それを思い出したのは、ふるさとを持たない話から。
自慢できるふるさとを持つことは、きっと支えになるのではないかと思う。
ふるさとを持たなかった少年がテロに走る。
バルセロナに生まれた17歳の少年。

17歳と聞いてすぐに思い出すのが、大江健三郎の「セブンティーン」だ。
17歳の誕生日を迎えた孤独な少年が、右翼になっていく内面を描いた小説。

彼らを擁護しているわけではなく、ただ、テロや戦争をなくすために私たちができることはただ柔軟であることだけなんじゃないかと思う。
悪い連鎖を断ち切らないと、どこまでもどこまでも続いていく。
17歳なんて、うちの長男より幼いんだ。
まだ、自分が死んでいくことの意味さえわからない。
そんなバカな少年がテロに走らない世界になったらいいなと思う。

甘いよ!お前と言われても。
排斥するだけじゃ、何も始まらない。

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うちの子どもたちはやっぱりカソルラをふるさととして、大事に思っているようだ。
いじめられても、それでも、両腕を広げてくれる人がたくさんいたから。

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by cazorla | 2017-08-27 06:32 | 思うこと | Trackback | Comments(4)

ほんの1週間くらい前に夫と「バルセロナ」の話をしたばかりだったんです。
やっぱりね、
なんていうか、
空気が淀んでいて、
困ったなーという話。

バルセロナでテロが起きたけれど、それとは関係なく、そういう話ではなく、
バルセロナの話を夫としたのは息子を見送った駅のカフェテリア。
バルセロナで観光客に対する嫌がらせみたいなのが始まってるという話。
観光客なんて来ないでほしいという動きがすごいらしいと。

そういうのわかる。
とかなんとか。

カソルラもなんか最近人気が出て、
おまけにバルセロナのように都市じゃないから、
空間がそんなになくて、人が多くなると、ある部分は原宿並みにすごくなる。
田舎暮らしのいいところは不便だけど、静か、じゃなかったっけ?
と、まあ、観光で儲かってる人もいて、
誰かが儲かると、町の雰囲気は盛り上がるのだけれど。

私の住んでいる歴史指定地区にある無料駐車場は、基本、住民のものなのに、
やたら人がきて、車を置く場所がない。
観光客用の有料駐車場は町の入り口付近にある。
そこに入れてほしい。
まあ、そういう大したことないけど、ちょっとした不満。

あるとき、どこかの書き込み、スペインが好きな人とかの書き込みで、こういうのがあった。
「せっかくコルドバに行ったのに、パティオに花が飾られてなかった。
パティオ祭り以外の時も観光で行った人のために飾って置くべきだ。」

というようなこと。
コルドバにはパティオ祭りとかなんとかいう祭りがあって、パティオにキレイに飾られた花のコンクールが5月にあります。
どこのパティオもキレイに飾られて、人気のお祭り。
観光客も多い。
でも、それは住民が「勝つこと」を目的にして、飾り立てる。
シーズンオフは次のコンクールに控えて、枝を切って、ケアしている。
住民は観光客なんてどうでもいい。
観光関係で働いている人を除いては。

観光客は、観光地に行くとそこがディズニーランドか何かとちょっと勘違いしているようだ。
住民は観光客なんてどうでもいい。むしろうざいと思っている。

それはそれとして。
バルセロナはアンチ観光客の動きがすごくて黒雲が立ち込めてた。
しかし、今回のはテロです。
このアンチ観光客とは関係ない。

でもね、ないけどある。あるけどない。

なんというか。

テロが起きるとまず「イスラム」というのがキーワードで出てくる。
イスラム教徒だったことは正しいけれど、
パリのテロにしても、バルセロナにしても、
だいたい普通に市民、そこで生まれて育った人たち、
オリジェンはイスラム系だけれど、そこで生まれて国籍もフランス人だたり、スペイン人だったりする。

その辺りが問題をあまりよくわからない状態にしている。

バルセロナとパリの共通点は、イスラム地区とかチャイナ地区とか、そういうある種の人が固まっている場所がある。
そういう社会の雰囲気、社会の閉鎖性のようなもの。

スペインに住む外国人として、いうのですが、
決して、イスラム教徒が攻撃的なわけではなく、
外国人とフラストレーションについてちょっとだけ考えてほしいなと、
そうやって少し社会が柔らかくなって行ったらいいなと思うのですが、

テロが起こるとさらに閉鎖的になって行く。
それがとても悲しい。

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by cazorla | 2017-08-21 03:01 | 思うこと | Trackback | Comments(8)

母は一人で暮らしている。
本をたくさん読んでいるようで、会うたびに話が飛ぶ。
明治時代の人の話が出るかと思えば。モーパッサンの話。
モーパッサンの小説に出てくるエピソードがスタインベッグにも出てくるという。
母乳を飲む、死にかけた人の話。
子供がいなくなってなお出る母乳を死にかけた人にあげる話。

モーパッサンは1850年生まれ。スタインベッグは1902年生まれだからパクったとしたらスタイベッグかななどと話す。

写実主義のモーパッサンは、いかにもあったように書くけど。
私はちょっと疑う。
母乳って、乳首から直接飲むのは、赤ん坊だからうまく飲めるので大人はかなり難しいと思う。
というのも、長男が生まれた時、長女が飲みたかった。
まあ、こういうことが自慢にならないかもしれないが、私は母乳はなかなかうまかった。
母乳の時代だけ、菜食主義にしていた。
完全ではないけれど、野菜中心。
牛と同じ。
ライオンの乳より牛の乳がうまい。

そういうわけで、長女がまずおっぱいに吸い付いたんだけどうまく飲めなかった。
コップに絞って飲ませたやった。

「ママのぎゅうにゅうっておいしい!」

という。
ママのは母乳で牛乳ではないのじゃ。
まだ、漢字を知らないから、(今も知らないが)母乳と牛乳の違いがわからなかった。

だからね、モーパッサンの写実主義も実は写実ではないのではないのではないかと疑うという話。
写実主義の絵画にしても見たママをそのままに描くと嘘っぽくなるらしい。
どこかでちょっと嘘を入れると本当に見える。

世界ってそういうものなのかもしれない。

本当に見えれば、それはそれでいいじゃないかと受け入れるべきか。
真実をとことん追求すべきか。
それはかなり難しい話だ。

追求した向こうに何が待っているのか。
それもかなり難しいし、そしてちょっと怖い。

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by cazorla | 2017-08-13 07:22 | 思うこと | Trackback | Comments(4)

市川に住んでいる友人が話してくれたこと。
生ゴミ捨てたら、中に燃えないゴミが混ざっていたって書いた紙付きで玄関の前にゴミが戻ってきていたと。

それは小さな燃えないゴミだったそうで、うっかり入り込んでいた。
燃えないゴミって自治体で若干異なるんです。
例えば、タバコのフィルターって横浜と東京でどっちがどっちだったか忘れたけれど、燃えないゴミと燃えるゴミになるらしい。
革靴も完全に皮だけで作っていれば、燃えるゴミになる自治体もある。
焼却炉の温度にもよるそうで、高温であれば鉄だって燃えるごみになりうるそうな。

で、市川に住んでいる友人の話に戻るけれど、このご近所さんは多分、ゴミ袋を一つ一つチェックしているのだろう。
すごいね。
中には、やっぱり見られると嫌だなと思うようなゴミだってあるわけではないですか?
かつて山口百恵が引退して、そのゴミを漁って記事にした記者がいた。
それに似た不快感があります。

ご近所さんに監視されている恐怖。
東中野で一人暮らししていたのですが、ある日ちょっと大きめ、だけどそんなに大きくないものを捨てることになった。
台所に置いて、オーブントースターなどを載せている低めの台。
粗大ゴミになるのかどうか、電話で問い合わせたら、「女の子が一人で持って階段を降りられるくらいの大きさなら燃えないゴミ」と言われた。
それで、どっこいしょとゴミ捨て場に持って行ったら、すぐに見たこともないご近所さんが来て、これ粗大ゴミでしょと言う。
説明したら、もしゴミとして持って行かなかったらちゃんと引き取ってね、と念押しされた。

窓からいつも見守っているんだー、ひえーと思った。

そう、日本ってそう言うところあるでしょ?
他人のことに無関心なようで、悪いことしていないかちゃんと監視している。

前書きが長くなりましたが、虐待事件の記事の話をしたかったのです。
スペインでは10分以上子どもが泣いていたら、通報する。
やはり、異常事態が起きていると考えるべきだから。
それに対して
「通報することがよい。私は密告社会のようでそれも恐ろしいです。すべてを制度化するということは、それだけ制度化する要因があった、またはあるという解釈もできるのではないでしょうか。」と言うコメントをいただいたからです。

個体差はある、と言うのは便利な言葉だと思います。
泣く子がいる。
泣かない子がいる。
オムツを外れない子がいる。
オムツがすぐ外れる子がいる。

ある部分それは本当かもしれないし、あるいはそんなに違いなんてないかもしれない。
もちろん、うちの3人だって随分違った。
それでも、ある程度の線引きをして、こう言う場合は平均値で考えて、虐待されている子供がいれば、やはり通報すべきだと思う。

狭山虐待事件でご近所さんが、10月くらいまで喘ぎが毎晩だったのにその後間遠くなって、全く聞こえなくなったら、男性との関係が悪くなっていて12月に出て行っていたと言うご近所さんの証言があった。
よそんちのセックスの営みをそこまで細かくわかるのなら、子供が虐待されているかどうかわかるはずじゃないかと思った。

密告しようと何をしようと子供が死なない社会を作る、それをまず第一に考えるべき。
それはね、そう言う世界ってなかなか大変だ。
子供はバカじゃないからそれを利用したりする。
うちの子供だって、(一番可愛い末っ子のアルバロがですよ)
歩いていて、アイスを買ってあげなかったら、「僕、虐待されてるー」と怒鳴った。
それは息子がまだ6歳くらいの時。
「ダレカタスケテー」と叫ぶ息子にものすごい疲れを感じた。
社会は子どもに優しい。優しすぎるかもしれない。
それでも、虐待があるよりましだと思っています。

普通の親は子どもを殺したら、社会から抹殺されるのを知っているから殺しはしない。
殺されないけれど、虐待されている子どもの数だってかなりのものです。
それは、いじめにも繋がり、DVにも繋がる。
攻撃の連鎖。
私たちの中に潜む残虐さ。

虐待で死ぬ子供が毎日一人と言う新聞の記事。
この数字は多分、決して法の前に裁かれなかった、けれども、疑いを持っている医師の密告によるものなのかもしれません。





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by cazorla | 2017-07-10 04:39 | 思うこと | Trackback | Comments(7)

最近、卒親できない親が多いというニュースを読んだ。
結婚相手も就職先も、なんでも口を出す。
結婚相談所も親が行く。
そういうニュース。
親と子供がぴったり寄り添っているのは80年代もそうだったように思うけれど、きっとさらに強くなったのかもしれません。
スペインに住む、いえ、欧州に住む多くの日本人母たちが物足りなく感じるのは、入学式などないから、子供たちが勝手に学校に行ってることかも。

それはそれとして、卒親できないというのは、年齢的な問題があるのではと考える今日この頃です。
卒親できず、結婚就職に首を突っ込む『50代』の親と書かれていましたが、昔なら50代は孫がいてちょうど良い時代。

動物も子供が作れなくなると、赤ん坊に執着し、群の赤ん坊を連れ去って乳をやろうとするらしい。
シェパードやライオンなど、群で育てているとそういうことを観察できるらしいです。
そういう切なさを理解できるようになりました。
多分、孫などいたら世話しているかもしれません。

女性は特に50代の半ばに閉経して、理屈ではなく、切なく何かを求めるのかもしれません。

適齢期という言葉があります。
結婚年齢のことですが、適齢期は孫を持つのにも、介護するのにも、介護されるのにもやはりあるように感じます。
母は33歳で私を産み、私は36で娘を産みました。
すると57歳の私が90歳の母の世話をし、3人の子供たちの進路の相談などにアドバイスしたり。
90歳の母に65歳くらいの娘がいたら、もっと一緒にいる時間があるし、嗜好ももっと近く、理解できることももっとあるかもしれない。
そして、40くらいの元気な孫が、時々大掃除や買い物などしてくれる。
そのくらいの歳の開きがちょうど良いのかなーなどと。

そういうことを考えていた時、ふと思い出したのはドイツの奨学金制度のこと。
大学生の奨学金。返済義務のない奨学金で、8歳以下の子供がいる場合、支給額が増える、というのを以前読んだんですが、
これには世代サイクルを理想的にするためでもあるのかなとふと思いました。

子育てしながらでも勉強できれば最高ですよね。

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もちろん、36歳の新米ママ時代はとっても楽しかったです。



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by cazorla | 2017-07-05 08:03 | 思うこと | Trackback | Comments(2)

スペインに住んで、おまけに10年帰国しないと知らない言葉が多くなる。
その上、わかったつもりの言葉も多いので、誤解してしまうことも多い。
女子力という言葉もその一つ。
この記事を読むまでは、もちろん「GirlPower」のことだと思っていた。



私が「女子力」という言葉で思い出すのは、長男エンリケが小学校6年生の時のこと。

学校で運動会というか競技会があった。
毎年、テーマや方法が変わる。
5年生の時はシンプルにマラソンで、次の年は優勝するぞと思っていた。
が、6年生の時は、2人1組で、二人三脚の障害物競走。
くじ引きでカップルが決まる。
平等教育の一旦で、全ての人に優勝の可能性があるように。

友達の前年のマラソン優勝者とサッカー部のヒーローがペアになった。
エンリケは、クラスでちょっと(いえ、かなり)太った女の子と一緒。
エンリケは、かなり失望した。

競技会当日行かないという。
夫がそれは良くないという。
「そんなことしたら、彼女は自分が太っていてとろいから君が行かなかったと思い、傷つく。」
「負けるってわかっているのに、行ってもしょうがない。」
「男は負けるとわかっていても戦わなくてはいけない時がある」とバイロンのようなことを言う夫。

それで、渋々エンリケは競技会に参加した。
出かけるときに夫はもう一つ注意を与えることを忘れなかった。
「女の子が遅いからって無理に走ってはいけないよ。彼女が走りやすいように、気を配ってあげる、それがジェントルマンだ。」

ところが、優勝してしまう。
エンリケの話は下記の通り。

「彼女さ、勝つつもりだったんだ。足を結んで、ゆっくり彼女と進もうとすると
『何やってんのよ!行くよっ(ヴァモノス)!!』ってすごいんだ。
で、優勝候補の二人組がからかって笑っていると、足にくくりつけていた風船が割れちゃった。
風船が割れたら、失格というルールがあるから、僕たちは2人で気をつけて走った。」

これぞ、女子力だと感じました。
私なら、スポーツマンの男の子と組んだら、相手に申し訳なくて、緊張しちゃうか、諦めるか、やめちゃうか。
でも彼女は、頑張ろうって思って、結局、本当に勝った。

エンリケもこのときポジティブシンキングが大事だと学んだ様子。

実は女子力で別のことを書きたかったんだけど。
日本は男尊女卑と言われるけれど、日本女子は仕事ができるし、女子パワーはすごいと思ってます。
政治家の女性の割合が低いというけど、政治家になりたくないというのは理解できます。
銀行に行っても、色々ちゃんとわかってるのは女性の方です。
日本の女子は最高です。

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女は体力。
娘、エクササイズ中。
母もよく自転車こぎなどやってました。
私もプールに通ってます。




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by cazorla | 2017-07-02 19:58 | 思うこと | Trackback | Comments(2)