冬の散歩。 寒いけど 空が青い。:
 歩き続けると 汗をかく。
 カソルラ生まれの二人の友と一緒に歩く。
 こんな近道があったのかと 驚きながら。 あちらこちらに 礼拝堂がある。
 カトリックの長い歴史 民の祈った小さな礼拝堂。
 これは サン セバスチャン礼拝堂 六世紀のものと言われています。 今はだれも使わない。
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カトリックの長い歴史 民の祈った小さな礼拝堂。 これは サン セバスチャン礼拝堂 六世紀のものと言われています。 今はだれも使わない。 ここは 村から離れているので 雪が降ると 降りていけない。
 礼拝堂の横っちょに 少し年をとった夫婦が住んでいた。
 スコットランド人の奥さんは 二人の息子を  もう 三十すぎていたが  去年と一昨年 二年続きで亡くしてしまった。」 今 離婚して 一人で住んでいる。
 離婚するか ますます 関係が深くなるかは その人次第だし 状況次第。
 でも なんとなくわかるような気がする。
 もし 子供が死んだら あなたは どうするだろう。
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赤い実 見つけた。 冬の実。
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by cazorla | 2013-12-29 02:05 | カソルラ | Trackback | Comments(13)

名前というのは不思議なものだと 先日 自己紹介する喫茶店の記事を書いて以来考えています。

名前を知ってるというだけで 他のことはなにも知らなくても 距離が縮まる。

なんとなく 友達になったような気がする。

西洋世界だと 姓ではなく 名前 いわゆるファーストネームで呼ぶのが 普通だけれど 日本だと

かなりしたしくないと 名前では呼ばなかったり。

エリオットは 猫に名前をつけるのは大変だと言う 詩を書いているけれど 猫だけでなく 人間だって

名前にかなり左右されるのではないか。

中野に住んでいる佐藤彰彦さんという画家は 高校生になるまで 絵にまったく興味がなかったそうだ。

でも 絵の大好きだった双子の弟が亡くなった時に 突然 絵を描き始めて 弟の名前 佐藤彰彦と

署名するようになった。 自分の名前はその時に消滅した と言っていました。


辻まことは 自称 オトカム。

Makotoをさかさまから読むと Otokam

たとえば Kumiko Okimuk。 オキムク

Yumi は Imiy。 イムイ

Takesi は Isekat。 イセカト


なんとなく さかさにすると なんとなく 山の精というか

森の中の住人みたいな名前になります。

辻まことは なぜ 名前をさかさまにしたのか。

自己否定なのか。

まこと 一 と書いてまこと。

一人っ子というイメージがあるけど 流二という 弟がいる。


名前を変えたいという欲望はだれにでもあると思います。

もしかしたら 新しい人生が始まるかもしれない。

娘には スペインの名前の中で一番シンプルな マリアと言う名前をつけた。

これなら 世界どこでも 聞き取れるし 一番 なじみのある名前だと思ったから。

でも あまりに普通すぎて もっと 変わった名前をつけたいと思っているらしい。


辻まこと は 娘にイヴという名前をつけた。

でも その子が死んでしまうと しばらくして生まれたもう一人の子に 同じ名前をつけた。

私なら その子の思い出のために 同じ名前をつけないと思う。

彼は なぜ 同じ名前をつけたのだろうと このごろ ずっと 考え続けているのです。



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写真は 最近 売り出した名前つきコカコーラ。
名前の種類が少ないスペインだからできる。
でも 私 私 私 という そんな風潮を象徴しているような。


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by cazorla | 2013-12-08 08:50 | 思うこと | Trackback | Comments(7)

オリーブ農家に育った詩人が オリーブをテーマにスペイン語で俳句を書き 私が日本語に もう一人が 英語に訳して  一冊の本にしました。 
この過程で 俳句が世界で どのくらい作られているのか また 読まれているのか 
そして なぜ 短歌ではなく 俳句なのか
そういうことを 色々 考えたり 読んだりしました。
なかなか 楽しい作業でした。
個人的には テーマが 私のいつも書くもの 書いていたもの 書こうとしているもの
と ぜんぜん違うので かなり 苦しんだのもほんとです。
この詩人は ほんとに良い人なんだなあと 感じました。
かんじざるおえないのです。
かんじなければ 訳せない。
訳すというより 彼が書きたい あらわしたいものを 一度映像化し 感じて
そして 私が俳句を作る作業。
そうでないと 五七五 に入らない。
随分 長くなってしまう。
英語訳のほうは もう少し 自由に三行詩を作っていましたが
私は 日本人だから 俳句であるからには 俳句にしよう と がんこに がんばったのです。
できは ほら 見て見て と 言えるほど 上出来なわけではありません。
俳句をしている方に見せるのは。。。。だな と躊躇する。
それでも 先日 出版記念会で 読ませていただき 音として きれい と
お世辞であれ 言っていただいてうれしかったです。
私は 詩は まず 音だと思っているから。

1990年に 一人で スペインを旅行しているときに バルで 詩人だと言うと
何か詩を 朗誦しろ と言われて 朗誦するたびに なにかを ご馳走してもらってました。
若き 吟遊詩人だったころ。
スペインの文化の深さに感動した旅でした。
今は そのころに比べると 随分 俗になってしまったスペイン大衆文化。
それでも こんな小さな村に 俳句を書く詩人がいて 本を出版するのです。

出版記念会には 意外とたくさんの人が来て 本を買っていました。
買った本に 私たち三人が サインをしました。
娘は 難しい年頃なので来ないかと思いきや
たくさん 友達を連れてきてくれました。
(もちろん ガキンチョ集団は本を買いません。 そこにある オードブルにパクついているだけ。
それでも 枯れ木も山の賑わい。 笑)

「ママ いっぱい サインしてたね まるで有名人みたい。
セリアも(友達の名前)すごく ビックリしていた。」
と そこそこ 満足していました。
ちょっと プラウドな気分で友達を連れて来たみたいです。

「ママ 私も サインする人になりたい」

結局 サイン に感心しているだけかい?
ママの仕事に対して なにか感想はないのかしら?

でも 今日はちょっと 娘と近づいた   というより
娘が近づいてきた そんな 一日でした。

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by cazorla | 2013-12-02 01:07 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(14)