父が12年前に手術の後、死んでしまった。
手術は成功したものの、なぜか突然死んでしまった。
以前にも書いたかもしれない。
父は首の付け根部分の血管が詰まってしまったために、血が頭に届かないために、脳が働かない時があった。
夜中にトイレに行きたくなって、どこにトイレがあるか思い出せないので家の中を探し回った。
そういう状態で手術をした。
そういう状態であったが、まだオムツをしていなかった。
病院では、オムツをされた。
父は、オムツを自分で外した。父の最後のプライドである。
オムツを外すのでベッドに縛られた。
父は強靭な人だったので、縛られた綱も外して、またオムツを外した。
さらに強く縛られた。
そうやって手術し、成功したのが6月11日。
成功したのだから、血は頭に登って行き、脳は以前より機能する。
しかし、部分的に壊死していたから、言葉がうまくでないところもあったそうだ。
それでも、自分が自分であることや、どこにいるか、そういうことはわかっていたのだと思う。
そして、オムツをすることの不快さも。
父はそれなりの体を持っていたので、重かったと思うし、だから世話をするのも大変だったと思う。
父を車椅子から、ベッドに移す時抱えて投げてベッドに置いていた。
投げつけられるから当然痛い。
「痛い、痛い」と父が言うと介護の人が「痛いですか、ははは」と笑ったと母が言う。
歳をとった夫婦のみで、家族が他にいないので、軽く扱われていたのだと思う。
そして、6月20日に死んだ。母の誕生日に。母がこれ以上苦しまないように。
これはある意味虐待死であったと思う。

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もちろん医療現場は人手不足で大変だと言うことはわかっている。
しかし、日本と言う国は憲法で基本的人権を守られることになっているのではないか?
それは国民の権利だし、国の義務だ。
医療現場が人手不足なら、国はそれに対して何かするべきだし、国民もそれを求めるべきだ。
虐待は医療現場による虐待ではなく、国による虐待だと、そう考えてます。

人が人であること、それは守られるべきことだと思います。
赤ん坊であっても、年寄りであっても。

一人の人間として、一つの人格として、人権を持った個人として扱われること。
それが虐待を、どう言う種類の虐待にしても、虐待を少なくしていくことだと思います。


■医療サービスの質が高い国トップ10(HAQインデックスによる)
1. アンドラ
2. アイスランド
3. スイス
4. スウェーデン
5. ノルウェー
6. オーストラリア
7. フィンランド
8. スペイン
9. オランダ
10. ルクセンブルク







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# by cazorla | 2017-06-27 07:07 | 思うこと | Trackback | Comments(0)

日本では虐待で1日1人の子供が死んでいるという統計があるそうです。
狭山虐待事件の判決が降りて、その記事を読んで思ったことを書きます。

下のようなコメントが載っていました。
このような児童虐待事件を防ぎたいと願うが、「たとえ子どもの(泣き叫ぶ)声を聞いても、それぞれの家庭に事情があり、実際に通報できるかと言えば、できない。警察か、児童相談所か、どこに言えばいいのかも分からない。こういうときにどこに通報するのか、もっと分かりやすくなればいい」と話した。
いつも同じようなコメントが載ります。
シンプルな法律でこれは解決できることなのではないでしょうか。
スペインでは、子供が10分以上泣いていたら、警察に通報します。
どんな事情があっても10分以上泣くというのは異常な事態です。
悪いことをして叱っても、もう絶対しないね、と言えば泣くのをやめます。

赤ちゃんが泣くのは、お腹が減っているか、オムツが濡れているか、気持ちが悪かったり体調が悪いなどの理由で、抱きかかえてあやせば泣き方も穏やかになります。

シンプルに警察に通報することが市民の義務になればと思います。
結局は、隣人に関わりたくない、隣人に恨まれたくない、というようなことでしょう。

それから「私も子供がいるが、虐待する気持ちがわからない。」というのもありました。
本当にそうでしょうか?
虐待を一切したことがない親がいるとは思えません。
多かれ少なかれ虐待はどこの親子関係の中にもあるのではないでしょうか。
虐待で死んでしまうのはごく一部の子供です。
それは、誰でも子供を殺してしまったら、社会的に抹殺されるのを知ってるからです。
だから、どんなに感情的になってもコントロールする。
死にまで追いやることは、まずないということです。
それでもこれだけ虐待死が報道されるのは、「虐待」が数多く存在していることの証拠です。
私だって、虐待したことはあります。
そして、虐待されたことがあります。
全く潔白な母親なんて本当に少ない。

こういうことを言うと理想論だと言われるかもしれません。
しかし、やはり言いたいのは虐待して殺したのはこの母親ではなく、
私たちもそこに関わっていたんだと言うことです。
仮にそばに住んでいて、泣く声が聞こえても知らん顔していたから共犯というだけではなく、
虐待せざるおえない状況を、または社会を作っている私たちが、
虐待させている、そして虐待されている子どもの一部が死んでいっている。

虐待にもグレードがあります。
自覚してなくても虐待になりうること。
悪いことをしたから叱っているという場合でも、そこに計画性、方向性、目的性がかけていたらそれは虐待です。
感情的になりすぎているかもしれません。感情的になったらそれは虐待です。
ほんの少し洋服を汚した程度で叱ったら虐待です。

もしかしたらオムツ外しをしないのも虐待と呼べるかもしれません。
私が赤ちゃんのときは、オムツは1歳の時に外していました。
今は2歳、3歳でもオムツをつけている。
これってもしかしたら虐待ではないですか?
だって、仮に私自身が今オムツをつけることを誰かに強要されたとします。
そしてトイレに行くことを禁止されるとこれは虐待ですよね?

そういうささやかな虐待は社会の中にあって、ちょっとずつグレードを増して、ある人はかなりひどいことをして、そして殺してしまっている。
ささやかなところから少しずつ、虐待を減らしていくこと、これが大事なのではないかと思います。
化学の実験的見解ですが。

正直に言えば、私がスペインに引越しを決めたのは虐待しそうな自分が怖かったからです。
私はスペインに逃げました。
私の中にある攻撃性が目覚めないうちに逃げました。
逃げ場のない人が虐待をして、殺している。
そう思うと死んでいった子どもたちにも、殺してしまった母親たちにも、責任を感じざるおえないのです。

そういうことを考えました。

つまり、子どもを連れたお母さんにもっと優しくしてあげてください、と言いたいのです。

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# by cazorla | 2017-06-24 07:02 | こども | Trackback | Comments(6)


先日、マドリードに行ってきた時に見た信号です。
新聞の記事で、読んでいたのですが、こんなにあちらこちらにあるとは思いませんでした。

ホモセクシュアリティの信号。
別に私はアンチ同性愛者ではありませんが、何故にしてこのようなものを設置するんだろうって思うのです。
というか、私の周りには同性愛者の人がいっぱいいるし、友人でもありますし、
若い頃は東中野に住んでいたので、同性愛の隣人もいて、ごく普通に空気に溶け込むように普通にありました。
それは善でもなければ、悪でもなく、ただ好みというかそういうものとしてそこにあったのです。

その上、ちょうど1980年くらいは少年愛ブームでもあって、文学とか漫画の世界では美化しすぎの傾向さえあった時代です。
でも、それは現在のスペインのあり方とは違った形でした。
そもそも、日本では同性愛に対して、極度に攻撃的ではなかったし、平安時代の文学の世界にも現れていて、ごく自然にあったのではないかと思います。

イギリスで1954年数学者のアラン・チューリングが同性愛の罪で逮捕され、刑務所でなくなってしまいましたが、そういう悲惨な事件は日本ではないと思うのですが、どうでしょう?
(にも関わらず日本ではまだ結婚が認められてないのですが。)

だからといって、同性愛者信号って何?と思わずにはいられないのです。

随分昔に、フェミニズム信号が設置されたことを記事にしています。


何故に信号?
と考えちゃうんですよね。

うーん。どうして何でしょうね。



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# by cazorla | 2017-06-22 12:07 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(2)