ふるさとはとおきにありて思うもの

「ふるさと」を持たなかった。
私が育った街は、父の故郷でも母の故郷でもなく、私たちは「よそもの」だった。
母はその土地のことばを嫌ったので、私はできるだけ使わないようにしていた。
多分、全く使っていなかったと思う。
ふるさとに実は憧れていた。

江戸っ子は三代目からというけれども、東京のように外から来た人の多い地域では意外とふるさと感覚を持ってしまう東京生まれは多いのではないだろうか。
そして、東京も東京をふるさとと呼ぶことを寛大に受け入れてくれるのではないかとそう思っている。
私は結婚を機に、戸籍を独立し、私の戸籍は東京になっている。
20年住んだ東京。
長女も長男も東京で生まれた。
だから、スペインの身分証には私のカードにも長男長女のカードにも東京Tokioの文字がある。
育った土地よりも東京が懐かしい。
それはふるさとを持たない人の感傷だろう。

遠藤周作氏が著書の中で、自分に自信がない人は父親や母親の自慢をする、
父親がたいして自慢にならない場合、祖父母、おじおばを。
それでもダメなら、先祖。
それも持っていなければ、平氏だ、源氏だと言い出す。
たいていの場合、どっちかに入るのだけれどそれでもダメだと、日本国。
そして右翼になる。

それを思い出したのは、ふるさとを持たない話から。
自慢できるふるさとを持つことは、きっと支えになるのではないかと思う。
ふるさとを持たなかった少年がテロに走る。
バルセロナに生まれた17歳の少年。

17歳と聞いてすぐに思い出すのが、大江健三郎の「セブンティーン」だ。
17歳の誕生日を迎えた孤独な少年が、右翼になっていく内面を描いた小説。

彼らを擁護しているわけではなく、ただ、テロや戦争をなくすために私たちができることはただ柔軟であることだけなんじゃないかと思う。
悪い連鎖を断ち切らないと、どこまでもどこまでも続いていく。
17歳なんて、うちの長男より幼いんだ。
まだ、自分が死んでいくことの意味さえわからない。
そんなバカな少年がテロに走らない世界になったらいいなと思う。

甘いよ!お前と言われても。
排斥するだけじゃ、何も始まらない。

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うちの子どもたちはやっぱりカソルラをふるさととして、大事に思っているようだ。
いじめられても、それでも、両腕を広げてくれる人がたくさんいたから。

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# by cazorla | 2017-08-27 06:32 | 思うこと | Trackback | Comments(4)

ほんの1週間くらい前に夫と「バルセロナ」の話をしたばかりだったんです。
やっぱりね、
なんていうか、
空気が淀んでいて、
困ったなーという話。

バルセロナでテロが起きたけれど、それとは関係なく、そういう話ではなく、
バルセロナの話を夫としたのは息子を見送った駅のカフェテリア。
バルセロナで観光客に対する嫌がらせみたいなのが始まってるという話。
観光客なんて来ないでほしいという動きがすごいらしいと。

そういうのわかる。
とかなんとか。

カソルラもなんか最近人気が出て、
おまけにバルセロナのように都市じゃないから、
空間がそんなになくて、人が多くなると、ある部分は原宿並みにすごくなる。
田舎暮らしのいいところは不便だけど、静か、じゃなかったっけ?
と、まあ、観光で儲かってる人もいて、
誰かが儲かると、町の雰囲気は盛り上がるのだけれど。

私の住んでいる歴史指定地区にある無料駐車場は、基本、住民のものなのに、
やたら人がきて、車を置く場所がない。
観光客用の有料駐車場は町の入り口付近にある。
そこに入れてほしい。
まあ、そういう大したことないけど、ちょっとした不満。

あるとき、どこかの書き込み、スペインが好きな人とかの書き込みで、こういうのがあった。
「せっかくコルドバに行ったのに、パティオに花が飾られてなかった。
パティオ祭り以外の時も観光で行った人のために飾って置くべきだ。」

というようなこと。
コルドバにはパティオ祭りとかなんとかいう祭りがあって、パティオにキレイに飾られた花のコンクールが5月にあります。
どこのパティオもキレイに飾られて、人気のお祭り。
観光客も多い。
でも、それは住民が「勝つこと」を目的にして、飾り立てる。
シーズンオフは次のコンクールに控えて、枝を切って、ケアしている。
住民は観光客なんてどうでもいい。
観光関係で働いている人を除いては。

観光客は、観光地に行くとそこがディズニーランドか何かとちょっと勘違いしているようだ。
住民は観光客なんてどうでもいい。むしろうざいと思っている。

それはそれとして。
バルセロナはアンチ観光客の動きがすごくて黒雲が立ち込めてた。
しかし、今回のはテロです。
このアンチ観光客とは関係ない。

でもね、ないけどある。あるけどない。

なんというか。

テロが起きるとまず「イスラム」というのがキーワードで出てくる。
イスラム教徒だったことは正しいけれど、
パリのテロにしても、バルセロナにしても、
だいたい普通に市民、そこで生まれて育った人たち、
オリジェンはイスラム系だけれど、そこで生まれて国籍もフランス人だたり、スペイン人だったりする。

その辺りが問題をあまりよくわからない状態にしている。

バルセロナとパリの共通点は、イスラム地区とかチャイナ地区とか、そういうある種の人が固まっている場所がある。
そういう社会の雰囲気、社会の閉鎖性のようなもの。

スペインに住む外国人として、いうのですが、
決して、イスラム教徒が攻撃的なわけではなく、
外国人とフラストレーションについてちょっとだけ考えてほしいなと、
そうやって少し社会が柔らかくなって行ったらいいなと思うのですが、

テロが起こるとさらに閉鎖的になって行く。
それがとても悲しい。

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# by cazorla | 2017-08-21 03:01 | 思うこと | Trackback | Comments(8)

母は一人で暮らしている。
本をたくさん読んでいるようで、会うたびに話が飛ぶ。
明治時代の人の話が出るかと思えば。モーパッサンの話。
モーパッサンの小説に出てくるエピソードがスタインベッグにも出てくるという。
母乳を飲む、死にかけた人の話。
子供がいなくなってなお出る母乳を死にかけた人にあげる話。

モーパッサンは1850年生まれ。スタインベッグは1902年生まれだからパクったとしたらスタイベッグかななどと話す。

写実主義のモーパッサンは、いかにもあったように書くけど。
私はちょっと疑う。
母乳って、乳首から直接飲むのは、赤ん坊だからうまく飲めるので大人はかなり難しいと思う。
というのも、長男が生まれた時、長女が飲みたかった。
まあ、こういうことが自慢にならないかもしれないが、私は母乳はなかなかうまかった。
母乳の時代だけ、菜食主義にしていた。
完全ではないけれど、野菜中心。
牛と同じ。
ライオンの乳より牛の乳がうまい。

そういうわけで、長女がまずおっぱいに吸い付いたんだけどうまく飲めなかった。
コップに絞って飲ませたやった。

「ママのぎゅうにゅうっておいしい!」

という。
ママのは母乳で牛乳ではないのじゃ。
まだ、漢字を知らないから、(今も知らないが)母乳と牛乳の違いがわからなかった。

だからね、モーパッサンの写実主義も実は写実ではないのではないのではないかと疑うという話。
写実主義の絵画にしても見たママをそのままに描くと嘘っぽくなるらしい。
どこかでちょっと嘘を入れると本当に見える。

世界ってそういうものなのかもしれない。

本当に見えれば、それはそれでいいじゃないかと受け入れるべきか。
真実をとことん追求すべきか。
それはかなり難しい話だ。

追求した向こうに何が待っているのか。
それもかなり難しいし、そしてちょっと怖い。

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# by cazorla | 2017-08-13 07:22 | 思うこと | Trackback | Comments(4)