1990年に初めてスペイン旅行をした。
地球の歩き方が流行っていた時期。
地球の歩き方が地球の転び方と呼ばれていた頃。
HISが格安旅行券を売り出して、私もそこでアエロフロート航空で出かけた。
トイレットペーパーが分厚くてほとんどオーブンペーパーのようだった。
ソ連の飛行機。
座席の通路が狭くて、ソ連人のスチュワーデスさんが通るたびに肩を少し内側に入れなくてはならなかった。
日本人スチュワーデスと全く違う、大雑把な対応。
機内食に関しては何も覚えてない。
不思議なくらい何も記憶に残っていない。

周りには日本人がたくさんいて、どのくらい旅行するの?とかいろいろ話していた。

当時は、まだ飛行機で喫煙できていた。
どちらかといえば、喫煙者の方が禁煙者より幅を効かせていた時代だ。
禁煙席を選んだが、私の一つ前の席は喫煙席。
ほとんど禁煙席の意味がない。

旅行前に風邪をひいていた。
なんとか、熱も治り、咳も止まっていたのだが、前方から流れる煙で咳がまた出始めた。
下手をすると、咳が止まらなくなる可能性もある。

こういう時、普通はどうするのだろう?

私はスチュワーデスさんに相談した。
席を替えることが可能かどうか、とにかく酷いほど咳がで始めた。
スチュワーデスは前の席に座っているグループに話した。
彼らはスペイン人だった。

そのあと、彼らはタバコを後ろの別スペースまで行って吸うようになった。
おかげで咳も止まった。
スチュワーデスさんが、飲み物をひっきりなしに持ってきてくれる。
毛布を持ってきて、くれる。
飴を持ってきてくれる。
そうやって、やっと落ち着いたとき、周りの空気が変わっていることに気づいた。

「日本の恥だ。」
と誰かが言った。
それが私に向けて言われているのか、すぐにはわからなかった。
「非国民」と誰かが言った。
「信じられない!」ともう一人が言った。
そしていくつかのののしりの声を聞いて、それから日本人乗客たちは誰も私と口をきかなかった。

マドリッドに到着して、スペイン人たちが口々に体に気をつけて旅行するようにと言ってくれた。
タバコを吸う人も吸わない人も、みんなが口々に挨拶して、軽くハグをしてくれて、別れた。
スチュワーデスさんも、体に気をつけて、良い旅になりますようにと言ってくれた。
日本人乗客たちだけが、私を冷たい目で見ていた。

私はずっとこのことが心に引っかかったまま過ごしてきた。
もう30年近く昔のことだ。

引っかかっている。そして答えが見つからない。
夫に話してみた。

「それはね、日本人は我慢しなくてはいけないと思っている。
特に相手が欧米人だとなおさら我慢して何かをいうのはタブー。
僕はなんてたって、10年以上日本の外務省で働いてるからそういうことはよくわかる。
君は日本人なのに本当に日本人の心を理解できないね。」
そう言って夫は笑った。

我慢しないから日本人の恥?
やっぱり相変わらずわかっていません。
無駄な我慢は何の解決にもならないと言われて育ったので、やっぱりわからないまま歳をとって言ってます。
幸いなことにスペインに住んでいるので、あまり問題も起きないで誰かに怒られたりしないままに。

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写真は最近のマルタ島行きの飛行機


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# by cazorla | 2017-10-13 06:23 | 思うこと | Trackback | Comments(6)

某ブログで、父親であるブログ主さんが家族の洗濯をして干す。
当然、20歳くらいのお嬢さんの下着も干す。
これに対して、「母親」が「恥じらい」を教えるべきではないかとコメントが入っていた。

恥じらいって何?

日本女性の恥じらいとか言って、これは日本の女性独自の文化のように感じている人も多いようだ。
本当に日本女性って恥じらいがあるの?
下着問題と恥じらいは、少し別問題なのではないかと感じる。
ここの辺はすごくややこしいので一つずつ検証した胃と思います。

恥じらいというのは「個」の認識だと思う。
自分がどういう存在か。それは「他者」の認識と対をなしている。
他人がいなくては恥ずかしいという気持ちは生まれない、もちろん。

足を広げて座るのも、電車で化粧をするのも、他者を意識していないから。

マドリッドのティッセン美術館は私立であることも関係しているのか売店で素敵なものがリーズナブルな値段で売っている。
ちょっとしたお土産にもオススメな小物が多い。
美術館そのものは印象派が多いので、そんなに煩雑に行かないが、たまに売店に入る。
売店は人気があって、結構繁盛している。
いくつか選んでレジに並んだ。結構、待たなくてはいけない。
後ろに並んだノルウェーから来た青年とおしゃべりしながら待っていた。
すると、日本女性が当然のように私の後ろに割り込んで来た。

私も彼も並んで待っているのにどうして割り込んでくるの?ときいてみた。
すると、その質問にびっくりしている。
「並ぶべきじゃないかなー? 割り込みなんかしたらよくないよ。」
「私たち同じ日本人でしょ!」と答えが来た。

この人たちは、日本では(たぶん)割り込みなんてしない。
でも、スペインで私という日本人をみて、全く良心の呵責もなしに割り込んで来た。
これは「個」の消失。
または、私と彼女たちは同じ日本人というくくりで、「個」の広がり。
私のことを他者とは思わなかった。
「私たち同じ日本人でしょ?」という言葉がそれを表している。

割り込みはよくないというと、時間がないという。
時間がない。せっかくスペインに15時間もかけて来たのに云々。

どちらにしてもそれは後ろに並ぶ人たちに、許可を求める問題。
スーパーのレジなんかでもよく、「今から子供を迎えに行かなくちゃいけないから、先に払わせて!!」とどなるママたちがいる。もちろん優先。

最終的には、日本人観光客用の別レジができて、そちらで支払いをして大急ぎで出て行った。

恥じらいは教えるもの?

前述した女性たちは、多分1950年くらいに生まれた人たち。
当然、「恥じらい」教育は受けてる。嫌になる程。
多分、最近の子はまたを広げて座ってけしからんなどと言ってるかもしれない。
それでも、堂々と割り込むなんて、恥じらいなんてないでしょ?

教えても無駄なんじゃないかなと私は思う。

それより、「個」の確立、他者とは違う自分の存在を認識すれば、どういうシチュエーションでも「恥じらい」のある行動はできると思う。

というふうに書いていてふと思ったんだけど、「恥」という言葉はだいたい「日本の恥」とか「家の恥」という感じで使われますよね?
「個」が家や日本という広範囲に広がって認識されているのが日本に置ける恥の本質かもしれないと思いました。

下着を見られるのは恥ずかしいこと?

下着を見られることは恥ずかしいことがどうか。
他人に下着を見られるのは恥ずかしいこと?
もし、勝手に下着を入れた引き出しを開けて、見られるとイヤですよね?

なぜか。

ずいぶん昔のテレビ番組。1970年くらいです。大昔。
久我美子だったか誰かが死を宣告されて、パンティを切り刻む場面が私の脳裏に深く残っている。
70年代はガンになったらほぼ絶望的だった。そんな時代。
70年代はほぼ福助のパンティを履いていた。そんな時代。
白い木綿で、使っていると黄ばみが出てくる。そこんとこを死んだ後にそれがたとえ家族であろうと娘であろうと誰にも見られたくない。それはとても恥ずかしいこと。

死んでいく怖さに比較したらそれは大したことではないかもしれないけれど、確かに大事なこと。
パンティを小さく小さく切り刻む。
そういうちょっと見られては困る、今、突然、交通事故に遭ってしまったら、見られては困る下着が引き出しには一つくらいあるでしょ?

これまた、ずいぶん昔、フランソワーズ・モレシャンというフランスのおしゃれ評論家だかなんだか、
色々な本を出して、フランスの女の子はどういうふうに日常のおしゃれをするか書いていた。
もちろん、私も一所懸命読んだ。
そこには、万が一に備えてレースのついた可愛い下着をいつもバッグに忍ばせておくこと、と書いていた。
万が一とはつまり、愛の一夜が突然起きるかもしれないということ。
なるほど、と私の頭にしっかりインプットされ、ほとんど無駄だったけど、レースフリフリパンティはいつも私のバッグの中にあった。
これはね、身につけている下着は、もしかして臭いがあるかもしれない、シミ(何かの!)があるかもしれない、古くてヨレヨレかもしれない、というような理由でちょっと「恥ずかしいもの」なのです。
当時はまだ「勝負下着」なんて言葉もなかった。

でも、同性の家に泊まることになっても、やっぱり予備の下着を持っているというのは大切な習慣。
同性が見てもやっぱり「恥ずかしい」。

父親が下着を干すこと

前述のブログの話に戻ります。

父親が下着を干すことについて、もし抵抗があるとすれば、それはなぜでしょう?
それと恥じらいって関係あるの?

コメントで「母親は娘たちに恥じらいを教えるべきだ」というようなことに対して『でもね、子どもがオムツしてる頃から僕が洗濯してるんで、子どもにとっては今さら違和感ないんでしょうね。」という答え。
つまり、父親を他者とするかどうかがここでは問題になるのではないかと思います。

父親がいつも家にいなくて、寝るのが早い子供は下手をすると週末しか会えない。
すると父親は、週末の「訪問者」としてインプットされる。
そもそも母親を「他者」として認識するのはかなり成長してからです。
お尻が気持ち悪いなーと思うとオムツを替えてくれる母親は自分の一部。
鼻がかゆいから指でかく、それと同じ。
鼻をかく手は自分の手。それと同様にオムツを替える手は「自分」の手。
そこには他者認識がないのです。

うまくいっている夫婦の子供が最初に発する言葉は「ダディ」だとアメリカの研究報告があります。
それは、生まれた初めて認識する「他者」だから。
人の名前を呼ぶ、というのは他者認識。自分のことは呼ばない。だから、ママはその後になる。
うまくいってない夫婦に当てはまらないのは父親は排除された「他者」だからだそうです。
もちろん、全てが日本の家族に当てはまるとは限らないのですが。

ところが、父親が甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をしているとそれも変わります。
父親を他者だと思えない。
個が確立した後も、ファミリーとしての認識がずっと強く、下着を干されていも違和感がない。

つまり、父親が自分の下着を見ることに違和感がある女性は、父親が自分を性の対象として見るかもしれないという恐怖もあるのかなという印象があります。

だから、これは「恥じらい」の問題ではなく、父親の存在がどういうものか、という、娘にとってどういう位置付けがされているかということなんじゃないかと思います。

息子が下着を干すこと

うちでは息子も洗濯物を干す。
もちろん、娘の下着も私の下着もある。
別に息子にだけ干させているのではなく、娘だって干す。
家事のローテーション。
男女平等ということもあるけど、息子に下着を干させると別のメリットがある。

つまりちょっとやそっとの下着で異常に興奮しない男になる。
人生、しょうもないことでダメにしてしまう人って多いでしょ?
脚を組み替えて、チラチラ、バサンバサンと見せて誘惑してくる女子を無視して欲しいです。
だいたい、下着フェチにもならない。(ちなみにスペインにはほぼ下着フェチはいません。)

洗濯物を干すのは、10歳くらいからしてるから全然抵抗はないようです。
余談ですが、うちの息子と結婚するとメリットいっぱい。アイロンかけも上手だし、ボタンくらいはつけられる。

うちの娘の恥じらい教育

なんてしてません。
反対に私がされることもある。
スパッツを履いて掃除をしていると、「ヴィーナスの丘」が見えるから隠すべきだとしつこい。
田舎のカトリック社会で育ってるから。
家の中だからほっといて欲しいんだけど。

(注釈:わかりにくいかと思いますが、イスラム教もカトリックも基本の根っこは同じところにあるせいか、キリスト教も体の線を出すことがタブーだった時代があります。あのハーレムパンツのようなものがイスラム圏で着用されるのもヴィーナスの丘が見えないための配慮。つまり、ジーパンもNGなんです。ここは中世かと思うんだけど、とりあえず、娘の意思には従ってました。ただし、家の中でまで言われるのはいやだ!最近、娘も都会で学生生活を送っているので、今では普通にジーパン履いてます。)

恥じらいっていうのは社会的な問題かなと思う。
というか社会における自分の存在の認識。
あと、テレビの普及で対象との距離が測れなくなっている。
世界認識がテレビ画面と同じ。
目の前にいる人を、テレビの画面と同様に見る。
これは世界共通だと思う。

電車でまたを広げて眠ってる女子高生の恥じらい云々とかよく書いてるけど、結局、家でテレビを見ている時と状況が変わらないのだと思う、外にいるという意識が少ない。

だから、恥じらいなんて教えてもしょうがないと思う。
教えても、日本の外に出て、割り込みするような恥知らずな行為に出てしまう。
ただ、自分は一人の人間で、外界とどう関わっていくかを認識させることしかできないのではないかなと思います。

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# by cazorla | 2017-10-11 16:43 | 思うこと | Trackback | Comments(9)

トラベルブックはできたばかりのサイトで、現在、記事が増え続けて、サーバーに問題が起きてしまい、連休中はサーバー復旧ができなかったようです。それで前回、紹介したバダホスの記事がひらけなかったのでもう一度、紹介します。

復旧できましたのでよかったら見てください。

ただ、「ポルトガルに行ける」というのが魅力的とコメントいただいたのですが、
ポルトガル旅行の記事はまた別の機械にアップするので、こちらには何もありません。

ただ、バダホスのみ紹介です。



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# by cazorla | 2017-10-10 17:10 | アンダルシア以外の街 | Trackback | Comments(1)