ハエン

ハエンに行ってきた。
身分証明書の指紋捺印のためです。 
五年前はコミサリア(警察署)でほかのスペイン人と同じ場所で身分証を作ってもらってたのにシステムが変わって外国人はオフィシーナ・デ・エクストランヘロス(移民局)まで行かなくてはなりません。 カソルラは田舎なのでハエンまで行くしかない。 だいたい車て゜ 二時間弱。 遠いよね。 

十五年前 初めてスペインひとり旅をした。
20万円で三ヶ月放浪。
その時 ハエンにも来た。
たった五百ペセタの安宿に泊まり ウベダとかうろうろしていた。
宿のおっさんがにこりともしない人で 眉が濃く 大柄だったのでちょっとこわかったけど 帰りが遅くなると いつも宿の前をうろうろして待っていてくれた。そしていよいよハエンを後にするとき それまでひと言もしゃべらなかったおっさんが「こんにちは」といいながら ちょっと涙ぐんで手を振ってくれた。 「こんにちは」でなくさよらなだよとは言えなかった。
当時 ●●はどこですか? と これいくら? と数字だけしかスペイン語がわからなかった。

この三ヶ月の旅行でもっとスペインを知りたくなったし 言葉もおぼえたくなった。
良い思い出です。
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# by cazorla | 2006-01-14 08:39 | アンダルシア | Trackback | Comments(6)

ゲルニカ

マドリッドの美術館巡りと言う記事でピカソの描いた「ゲルニカ」を見たので その事を夫と話しました。 ゲルニカの村は 市民戦争の犠牲でたくさんの犠牲者を出しました。

フランコとフランコをサポートするドイツ軍が ゲルニカを攻撃したのですがその時 ドイツ軍の将校とフランコの仲が悪く フランコの指示に従おうとしなかった。 それで ちょっとしたミスが起き 結果的に多くの犠牲者が出た。 その後 共産主義者達は敗北し スペイン銀行にあるすべての国の金goldを持って ソ連に逃げ去った。 全くの貧乏になったスペインはそれから 食べるものもなく 苦しい時代が続く。 

ひも状にした紙片を見せながら 右と左は両端だけど地球はぐるりと回って くっついちゃうと かつて仲良しだった政治学部の子が その紙でリングを作りながら言っていたけど 個人の自由を剥奪することに関してはけっこう似ているなと感じます。

スペインはフランコたちが勝って ロシア傘下に入らなかったのだけれど それでもヨーロッバはすぐ横に位置しているわけですから 冷たい戦争時代 米国はソ連の進出を恐れていました。 ですからかなり 経済的援助をすべてのヨーロッパの国にしていました。 おかげで 最初に紹介した 医療費無料 公的機関のサービスの無料 長い休暇 高い年金が実現されました。 米国自身はかなり劣悪な福祉ですが。
今 ヨーロッパの問題はロシアがかつての強さを持っていないために だんだん米国的資本主義社会になっていくということです。すでに 公的サービス や 年金も かつてほど魅力的ではなくなりました。
ところで「ゲルニカ」という作品。もちろん悲惨な殺戮を描いたと言うことで興味深いのはもちろんなのですが もうひとつ この作品は 場所を移動しているということで興味深いのです。 というのもゲルニカは反フランコを描いているわけですから スペインに置いておくわけにはいきませんでした。 ですからかなりの期間 ニューヨークにありました。 その後 フランコも亡くなり スペインに返されたわけですが 最初は プラド美術館に置いていました。 私が最初に見た 1990年の二月はプラド美術館別館にあって中にはいるときは 身体検査がありました。 私の前にいた日本人の女の子は鞄の中にフォークを持っていたのですが(缶詰類を公園で食べるため)没収されてしまいました。 そして 作品はガラスケースの中。 ただ 今の美術館よりひろく絨毯が敷いてあって ヒッピー風の若者たちが寝そべったり あぐらをかいたりして 何時間もゲルニカを味わっていました。 そして現代 レイナ・ソフィアに他の近代作品と一緒に置かれています。 もう誰も この絵を傷つけようとはしないのです。

「ゲルニカ」が本当の意味で スペインに帰ってきたのです。

そして自由も。

私たちはいつまでもゲルニカを直接 ガラス越しでなく しっかり見続けたいと思います。
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# by cazorla | 2006-01-11 04:15 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(6)

スペインの学校で

先日スペインの子供達はどうして学校が好きなんだろうという長文を書いたんですが 長文なのにたくさんコメント頂いてうれしかったです。
やはり 教育というのは本質的問題なんだなと思います。
ヨーロッパの現在の教育にもっとも影響を与えているのはマリア・モンテッソリーだと思います。
私自身とても尊敬している人です。 「戦争が起きるのは教育が間違っているからだ」という出発点で イタリアのとても貧しい地区で 小さな学校が始まりました。
彼女の理論は まず 知的障害のある子供達に適用されました。
そして 知的な障害があっても 正しい導きがあれば 成長していくことを証明しました。

ですから スペインの学校は 心身に障害のある子供も受け入れます。
それは 親の意思です。 親が普通の子供達といる方が 子供のためと思えば 選べるのです。 一クラス 枠は五人ですが実際には 三クラスに一人くらいです。
専門の先生もいて フォローされます。

今日 学校にお迎えに行ったら(スペインの学校は小学校の間はお迎えに行きます。) 丁度 一年生のクラスの体育の授業でした。 そのクラスにはダウン症の子供がいます。(カソルラは特にカトリック信仰が強いのでダウンとわかっても生むのでマドリッドに比べてダウンが多いと思う。・私見) サッカーをしていたのだけど この年齢なのでまだボールをバスするというのは不可能。 当然ダウンの子のところには行かない。 それでも一緒に走っていた。 授業終了。教師がボールを運ぶように ダウンの子に命じた。 彼は嬉しそうに 運んでいた。 そして おむかえに来た人たちが待つ校門に向かってシュート。 ひとりのおとうさんがボールを取り 「上手だね」と言いながら 彼に返した。 先生も にこにこ笑っていた。 友達も 何人かが手をつかんでにっこり笑い みんなほんわかした雰囲気。
その瞬間 とてもきれいだった。
それはその子だけのためでなく ほかの子みんながそのほんわかしたきれいな空気につつまれた この気持ちよさを忘れないように。 そう言う積み重ねが大事なんだと思う。 
このシステムは難しいと思う。ひとりの生徒が クラスの足手まといになると言う考え方もある。それは先生の考え方 感じ方 どう処していくか。 それで クラスの雰囲気も 障害のある子がクラスの中でどんな形で影響を与えるかも 先生の力量にかかっているのだと思う。

長女が四歳の時 私たちはスペインに引っ越してきたけれど 住んでいたのがマドリッドだったので クラスの半分は外国人だった。 スペイン語が話せない。 娘も当然 全然話せなかった。 しかし ペダゴロゴという言語学の専門家が 五人ずつのクラスで言葉を教えたので 三ヶ月で覚えてしまった。 また どのクラスにもジプシーがひとりいる。 ちょっと前までチャボラと呼ばれる掘っ立て小屋に住んでいたのを 新しい公団住宅をあたえ 学校に通わせる。 十五年前 私の友達は小学校で先生をしていたのだが 毎日ジプシーの子を家まで迎えに行った。
そうまでしなければ ジプシーは学校に行かなかったのだ。 しかし 五年前 私がスペインに来たときにはみんな自分で来ていた。 ここカソルラのジプシーたちも同様だ。 ジプシーの子が お誕生会を開いて パジョ(ジプシー以外のスペイン人)の子を招待したりしている。 そんなこと たぶん十五年前にはなかったはずだ。
先生たちの 少しずつの努力が 少しずつ実っていくのだと信じたい。


付記 大阪の梅田近くの公立小学校で聾唖の子供を受け入れている学校があります。
    友人の子供が通っているのですが とてもうまくいっているそうです。
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# by cazorla | 2006-01-11 03:49 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(4)