消えてゆく言語はスウィートだ
2006年 11月 05日
違和感は皮膚よりも性よりも
言語をもって明瞭にされる、わたしをも特殊化して、
その言語にはアクセントがなかった、
アクセントのない話し手に囲まれて、わたしは、
流暢に会話を持つことができなかった、
その上わたしは無筆だったもので、
書く言語をも嫌悪した、
アクセントのない呼びかけに答えるのはおそろしかった、
呼びかけられている感じを感じることができなかった、
答えてしまったらわたしの言語は、
みにくい、ゆがんでいると聞き取られる、
それを打ち消せない、
彼がよそで覚えてくる言語の中に、
アクセントのあいまいな部分を聞き取るとき、わたしは、
それを洗い流したい欲望を感じた、
声に出す言語はすべてわたしのもの、
知識や、
情動が、
時間や食物が、
よその人の影響下に、あるいは、
よその人ぴとの管理下にあるものであっても、
彼の書く言語がよその人びとにだけ受けとられるものであっても、
耳から入って口から出て、
そのまま消えてゆく言語はわたしのもの、
唾でぬらしてでも主張したいわたしのもの、
夜半、彼の背中をごしごし洗いながら、
そばかすの浮いた皮膚の上から、
あらゆるアクセントのない言語が洗い流されていくことを念じた、
デー、スイーテシタ、レトル、オメン (the sweetest little woman)
といつか彼はわたしに教えた、
デー、スイーテシタ、メン (the sweetest man)
とわたしもそれを真似した、
口うつしの言語たち、
息、息、
異質の、かえるに似た、こおろぎに似た、
彼はやすやすとそれを発音する、
いちばん最初は、
ナシテ、モーネン(nasty morning)だった、
それからアエ、ハブ、エテン、プレンテ(I have eaten plenty)
それからアエ、アン、ナタ、ハングレ(I am not hungry)
それからユー、アーラ、ナタ、ハングレ(You are not hungry),
あの日わたしははじめて彼の言語に触れえた、
触れてみたら、
言語に対して嫉妬を感じた、
この言語をもって、彼は外界とつながっているのである、
彼は書き、人びとが読む、それは残る、
しかし今、彼はわたしに残る言語でもって話しかけ、
言語はわたしの言語とまったく同じように、声に出て消えてしまう、
消えてゆく言語はスウィートだ、
関係がそこで消えても、
彼の記憶がそこで消えても、
声に出して消えてゆく言語はとてもスウィートだ、
もっとべんきょうしてせめてあの男の子たちのように、
彼の言語を理解できるようになりたかった、
後悔はわたしを嘆かせる、
それでもわたしが声に出して聞かせる言語は彼をきちがいにさせ、
彼はそれについてずっと考えているというのだ、
彼の背中のそばかすたちが、
わたしの言語におどらされて、うごく、うごく、
彼の太い腕にとってわたしは、
どんなにか軽いだろう、小鬼か妖精のように、
わたしの言語は彼の声を濾過して自由になり、
彼の体温や彼の体臭に変化して、
わたしにからみついて消える、
彼は言語でもって、
わたしの存在をほじくりかえし、
小鬼や妖精の棲みついてるためにとても重たいわたしの、
皮膚を唇を
見つけ出す、
見つめる、
★熊本滞在時代につくられた小泉セツの英語覚え書帳から引用・参照箇所あり。
伊藤比呂美 詩集 わたしはあんじゅひめ子である (思潮社 刊・1993年)
1994年2月10日 辻仁成・伊藤比呂美の詩の朗読会でこれを聞く。
それまでぜんぜん考えたこともなかったが 夫のことを好きになっていた。
これを聞いて気づく。
でも その時点でまだつきあっていなかった。
にも かかわらず 1995年3月には一緒に住みはじめ 1996年1月長女出産。
伊藤比呂美氏も このあと当時の英語の先生と ご自分のお子様達をつれて渡米。
縁というものはあるのだろう。
たしかにコメントつけられないわね、、と言いながら、「私、中島みゆきを思っちゃった」とカミさん。カミさんは中島みゆきは私が勧めた曲しか聴いていないものの、「求めて求めてという姿がダブるのかなぁ・・・」と。そして、コメントなんてとんでもないけど、敢えて言うなら「一緒になれて本当によかったわねぇ、、、かなぁ」と。私も、同じです。
「見つけることができてよかったねぇ、cazorlaさん」。まあ、お互いにかもですが。


どなたの絵が好きですか。 何を主に描いてらしたんでしょう。
わたしもずいぶん 絵を描いていません。
文章もかなり長い間 書いていませんでした。
十年くらい なにも書いていなかったので 最近書くのがとても楽しいです。
アイビーさんは 今 人生の中で一番忙しい時ですね。
中島みゆき セイロンベンケイ十選は どんな曲が入っているのでしょうか。
お友達は 有名なのでしょうか?
りろさんの詩を読んでみたい と 思いますが・・・
わたしも 古いディスコに詩を入れていたのでほとんど なくなっています。
ときどき自分で書いた詩に似た感覚 というか風景を今になってみることもあります。
詩をたくさん書いても詩人とはいえないし 詩を全く書かなくなっても詩人はいると阿部岩夫氏が言いましたが りろさんは詩人だと思います。
カソルラさんとご主人は双子の魂なんですね。カソルラさんはご主人の所で自分の場所見つけた!って感じがします。
映画 見たのですが 実は覚えてなくて ただ最後に ふたりが 私たちは双頭の鷲 と言った場面でぐっと来て泣いたことだけ。
ありがとうございます。 自分の居場所ですね。
この詩を読んで、レベッカ・ブラウンの"私たちがやったこと"を、思い出しました。
私にとって、その残酷さは、二人の行為そのものではなく、理想と現実の狭間で引き裂かれていく姿でした。自分の目に手を触れ、そして、耳を澄ましました。
言葉には魂が宿ると信じているけれど、魂のない言葉を吐き出すひとの、なんと多いことか。そんな言葉に、打ちのめされ続ける日々の、なんと辛いことか。
だから、言葉で以ってお互いに繋がり合えたと確信したときには、言いようもなく嬉しく、美しい言葉をその人のためにもっともっと紡ぎたいと思いますよね。
cazorlaさんとご主人が、とても、羨ましい。
人を幸せにするのもことばだし
悲しい気持ちにするのも
絶望も希望も ことばで。
ことばで繋がれる人と 一緒にいられるのは幸せだと思います。
