私は私が好き!
2006年 12月 07日
ある日公民館かどこかに行ったら 一人の女の子の後ろ姿が見えました。
髪が長く あんまり敏捷そうではない後ろ姿。
なぜか 涙が出るほどかわいくて 走っていって抱きしめたい と思いました。
でもよくよく見ると これは 鏡のマジックで 私の後ろにある鏡の像が目の前の鏡に映っていたのです。 私は 自分の後ろ姿にたまらない愛情を感じたのでした。
私は私が とっても好き。
自己愛って バカみたいですが。
ナルシストは ヒヤシンスになって ナルシストって あまり良くないように言われる。
でも やっぱり私は私が好き。
ルソーによると自然状態において人間が最小限に持っていた感情は 自己愛とコンパシオンだったそうです。 つまり 自己愛は 自尊心が生まれる自己保存の自然な感情であり コンパシオンは他者理解のための感情でした。 これを本質とする「野性的人間」は文明人より 自制心があり 他人に危害を加えることはありませんでした。
しかし・・・・
ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき 人びとがそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が 政治社会の真の創立者であった。(人間不平等起源論・ルソー)
私的所有の思想って 夫婦の間にも及んでいて それが結局不幸な考え方の基盤になっているような気がします。
夫が よく言うのです。
「ボクは幸せだ。ほんとうに幸せだ。もちろん 君もしあわせだと感じていてくれたらぼくとしてもうれしい。」
決して 幸せにしてあげる なんて言いません。
だれかが誰かを幸せに 「してあげる」 なんて 不可能です。
わたしは 彼を好きで 幸せだから 一緒にいたい。
そして 彼は私を好きで 私を優しい目で見ていてくれる。
「キスするようにシャッターを押した」って 昔 カメラかフィルムのコマーシャルでありましたね。
写真って 撮っている人の感情とか入ると思います。
だから 写真館で撮った写真より 恋人とか夫に撮られた写真の方が好き。
by E.C mi marido
自分が大切だから 自分が尊いから如来の本願が出た と言うのでなくてはならないと気付いて 『ひとつの親鸞』を書いた (折原修三)
ルソーの言う 自己愛は 自尊心の生まれる前の感情。
三島は 自己愛ではなく 自尊心が強かったかとおもいます。
自己愛が強い人はぜったい自己否定にはいきません。
自分自身に絶望して他力にすがるのではないと思います。
自分がたっとい。自分が大切て゜あり たっといものだから 如来の本願が出てきた。 絶望なんて しませんですよ。
曽我量深 「正信念仏褐聴記」
私的所有・・・我が家のポケットは一つ。それが我々の夫婦のかたちです。
最近は夫婦でお買い物されても、別々にお支払いされる方が多くなりました。パンぐらいと思うのですが彼らのやり方なのか知りませんが、あまりそうゆう人達には愛情がわきません。きっと愛想ない対応になってしまっているだろうなぁ・・と思います。
このコメントもわかる人にだけわかればいいや。
根元的・・ そういうことだと思います。
>自己愛が強い人はぜったい自己否定にはいきません。
これは解りました。しかし、女と男では自己愛の結果が違うと思うのです。女の自己愛は美に昇華するけれども、男は醜さに収斂されていくのです。やっぱり三島由紀夫には自己愛が強くあってナルシシストになったのではないでしょうか。ヒットラーもそんな感じがするのです。
この自己とは、もちろん、ユングの言う「大文字のSELF」として、私は捉えています。
ひとによっては、この自己、イコール、神、としていますね。
リズ・ブルボーは、こう書いています。
……海水の一滴一滴が「私は海である」と言えるように、私たちの一人ひとりも「私は神である」と言えるのです。……
ちなみに、さまざまな依存症や、神経症、精神病の方たちは、この自己とのつながりが断たれてしまっている方々です。ですので、治療では、この自己とのつながりを取り戻す、ということをさせていきます。これは、つまり、自己に対して責任を取れるようになる、自己一致した生き方ができるようになる、ということです。病んだ方々は、不遜にも、自我の都合に踊らされて、この自己とのつながりから目をそむけるようになってしまっているのですよね。
それは自分に対する肯定がないから。
りろさんが説明してくださってるのですが これが私の言いたいことだと思います。