トスカーニの写真 ベネトンの広告より
2007年 03月 30日
あんまり 自分のこと黄色だって思ってないし
たけし城が 今 スペインで放映されていて 題名が たしか チステ・アマリージョ だったかな? 黄色いジョーク。 そーいうのも いやだな とは思うけど
Hearts
ベネトンの広告 白 黒 黄
ハートはみんな おんなじさ。
Oliviero Toscani 撮影 STUDIOTOSCANIのページ
人間って みな そんなに変わらないな って思うのです。
住んでる環境 風土で食べ物が変わったりするけど
自然にからだをリラックスさせると 願い事は みんな同じ。
よく キリスト教世界は 一神教で 多神教の日本と 違うっていうけど
たとえばカトリックは 聖人 という形で 神のようなもの があります。
いろんな聖人の日にお祭りしたり お祈りしたり
その聖人にちなんで 子供の名前をつけたり
聖人にお願い事をしたり
本質は 多神教だと思う。
ローマ人が いろんな神と共存して そのまま カトリックに移行したのだから
その流れは 自然だと思います。
>本質は 多神教だと思う。
確かにそうでしょう。だから明治時代の日本も簡単に一神教的な思想になったのだと思います。ただ、それでは考え方の違いはどこから来るのか、農耕民族と狩猟民族の違いなのでしょうか。
日本と韓国と中国とじゃ、考え方の相違ありますね。
もしかしたら、色の違いよりもっと、違うかもしれない…
その考え方の違いというのを知らなさすぎるなと…
最後の写真ね
ワンコとニャンコの目線がそれぞれの性格を物語っているようで笑ってしまいました。
ワンコ「撮ってくれているんだからカメラ目線で♪」
ニャンコ「仕方がないからおつきあいしようか。」
ワンコからしたら気ままなニャンコは理解できないし、ニャンコからしたらワンコはどうしてそこまで飼い主に義理立てするのか理解できないだろうな。
記事からちょっとずれてしまうかもですが、私達は日常生活で始源ってほとんど考えない気がします。例えば元々人間には色があったのか?なんて。
元々に色がある(ない)からどうというんじゃなくて、言いたいのは、結局人は自分の置かれた現実の中でものごとを判断し、そして裁くんだなぁということdす。
日本語の番組を訳すのではなく、勝手なスペイン語のナレーションつけて流してたのが、何というかスペイン的で面白かった。こういう笑いがスペイン人にも通じるんだなあと、ちょっと不思議な感じがしたのを覚えています。だって、回りで見てるスペイン人、結構多かったような…テレビのチャンネルが少なかったのかもしれないけど。
humor amarillo という言い方はそれ程気にならなかったけど、でもあれって、ユーモアとはちょっと違いますよね? スペイン人は、あれが日本人のユーモアだと思ったって事でしょうかね?
でもそういえば、アニメの日本昔話もず~っと昔(むかしむかし-笑)、スペインで放送されてて、あれには結構原作の雰囲気の出てるスペイン語の吹き替えが付いてた気がします。日本のあのお二人がスペイン語でやってるみたいな…(笑)
本題から逸れて、ゴメンナサイ。
そこでは何事も、唯一ものとして捉えるしかないから一神教になるとか?
ところが、
緑が多くて生き物の多様性があるところでは、それぞれを神として捉えることもできると。
だから、多神教。
ある学者(松岡正剛?)が、そんなことを言っていました。
宗教の本質を突き詰めていくと、人間の求めるもの、必要なことが分かる気がして、色んな宗教を勉強しました。スタイルや信じるものが異なっても、神のような存在を心に見出す人間という生き物の本質は同じだと思います。
環境への適応として造られた殻は異なっても、人間の感情的、感覚的なところに分かり合える共通点がある気がします・・・愛とか悲しみとか、美しいと思う気持ちとか・・。
まず その人の本質を見たいですね。
確かににゃんこさん ふんっ て 顔です(笑)
世界中を旅して なんでも見た事があると言う人でも結局 そういう「自分」が何を見たか という 問いかけがないと 何も見ていないことになると思います。
その後の復活。 うちの子供達 よそんちでたまに見ていて(うち テレビないから)
自分の源は これかーって思ってるらしい。
最近 天才バカボンもやってるの。 あれは ほんとうに ちょっと昔の日本の風景だから これが 理解できるのか というより 放映されてるってことが驚き。
今日 ふとユダヤ人は・・って考えていたんですよ。 あんな昔から一神教だったのですものね。 で あれはなぜ って 考えていたんです。 どうもありがとうございました。
なんでもありって 思えるのがいいな と思います。
他宗派を攻撃することなく ね。