人気ブログランキング |

カテゴリ:思い出( 55 )

e0061699_07063890.jpg
1990年にスペインを3ヶ月かけて歩き回りました。
サルスエラ(スペインオペラ)の舞台を初めて見たのもこのとき。
当時はまだ、ピカソのゲルニカがプラド美術館の別館にあり、絨毯を敷いた特別室で鑑賞できました。
多くの人が絨毯の上に寝そべってのんびりと楽しんでいました。

1981年にニューヨークからスペインに戻されたばかりの時代です。

ピカソが死に、もうすぐバルセロナオリンピックが始まるそんな時代。
人々は素朴で、静か。
年をとった人が、(たとえ裕福であっても)小さな携帯ラジオでサッカーの試合を楽しむことが唯一の娯楽だったような時代。

ほぼ、全くスペイン語を話さない、勉強していない時代でした。
ホテルの探し方や道の聞き方程度を1週間で頭に詰め込んで拙いスペイン語で旅をしました。
だからしょっちゅう怒鳴るように「グァッパ」と叫ばれると、ちょっと怖かったのです。
グァッパの意味がわかりませんでした。

ある日は5人くらいの老人たちがスリスリと近寄ってきて、怖い顔でじっと見て全員でグァッパと言って去っていきます。
子供達も自転車で追いかけてきて「グァッパ」と言って、走り去っていきます。

疲れているときは、ちょっと悲しい気持ちになりました。

アンダルシアのロンダというまちでアントニオという日本語を勉強しているという男の子に出会いました。
大学ではタイの文化を勉強し、タイ語が専門だそうですが、日本語も話せます。
実はまだ勉強し始めて、6ヶ月とのことでしたが、すでに数カ国語を学んでいるせいかかなりのレベルでした。

彼にしょっちゅう「グァッパ」っていわれるんだけどどういう意味なのか聞きました。
すると彼の答えは「美人ってことだよ。」
すぐには信じられませんでした。
きっとスペインのことを嫌いにならないで欲しいからそんな嘘をついてるんじゃないかと勘ぐりました。

彼の家や彼のいとこの家などに連れて行ってもらいました。
すると子供達が近寄ってきて、「グァッパ」と口々に叫びます。

「みんながあんまり綺麗なんでびっくりしてるんだよ」とアントニオ。

言葉がわからないと、被害者意識の陥ってしまうのです。
本当はみんなとても好意的なもの。

最近、よくツイッターでスペインで差別なんて書いてる人がいますが、単に美人のあなたと話したいだけかも。

ちなみに私は決して美人ではありません。
ただ、当時は若く、日本人も少なかったこと、そして黒髪が真っ直ぐだったことでグァッパと呼ばれていたのでしょう。

一度、おじいさんに真っ直ぐの黒髪を見てるだけで意識が朦朧とするくらい感動するんだというようなことを言って、失神するふりをされました。

日本人の女の子って「信じられないくらい」綺麗だと思われるようですよ。



この記事に張っている写真の7年前だから、やっぱり可愛かったんだなと自分で思う。
基本的に多くの人はあんまり自分を可愛いなんて思わずに過ごしてしまいますよね。勿体無い。
コンプレックスの塊でした。

スペインを旅していた時の話はこちらに。






by cazorla | 2019-02-17 07:07 | 思い出 | Trackback | Comments(7)

海が見える街で

幸田露伴が娘の文さんに言ったこと。

お見合いした相手は、お断りするまでは家族なんだ。

家族だったか
「親」という言葉を使っていたか 少し記憶が曖昧なのだがそういうことを言った。
もしかしたら結婚するかもしれない人だから家族。
本当にすれすれだ。

こっちに行くか、あっちに行くかで、運命は変わる。
一生一緒にいる人になる場合もあれば、そのまま死ぬまで一度も会わない人になる。
ほとんど同じ可能性があるのに。
家族

そして夫とは、家族の中でも最も一緒にいる時間の長い人。
親よりもずっとそばにいてずっと関係が深い相手。

昔、週末をいつも過ごしていた人のお父さんが亡くなった。
多分舅になる可能性なんて本当にちっぽけなものだったと思う。
それでもお父さんの話はよく彼から聞いていた。
その波乱に満ちた人生と人生観。

彼が尊敬していることもとても感じた。

だから私はお父さんを家族として感じる。
家族の死として受け止める。
東京の家を手放して、千葉の海の見える家に住み始めて10年近いと言っていた。
それを聞いて、少しだけ安心した。
なぜだか理由はわからない。
ただ、海が見える場所にいるお母さんを想像しただけだ。

海が見える場所にいれば大丈夫かもしれないと勝手に思った。

e0061699_02432382.jpg




by cazorla | 2019-01-12 02:43 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

忘年会の時期の思い出



多分忘年会の頃だと思うんですが、
代々木駅での思い出。

代々木駅には実はいろんな思い出があります。
人を殺しそうになってしまった思い出とか。
本当に人生が変わりそうな思い出がたくさん。

当時は東中野に住んでいたのですが、なぜか代々木駅。
なぜかなと考えると
代々木駅は、山手線から総武線乗り換えが新宿より楽だからたまに代々木駅を利用していたのだろうと。

その日は1人だったのはなぜでしょう。
とにかく1人で代々木駅のホームに立つとちょっとうるさいグループが。

5人か6人のアフロアメリカンが、日本人の男の子にどこから持ってきたのかジョロで水をかけています。
日本人の男の子は、飲みすぎて吐いていたのです。
まあ、吐くなんてみっともないことかもしれないけど、水を上からかけることはないだろうと。
日本人の男の子は、多分新卒くらいの20代前半。
ちょっと泣きそうになりながらも、相変わらず気持ちが悪そう。

でも誰も注意しないし、見ないようにしている。

「ちょっとちょっとあなたたち
私の国で何やってるの?」

と思わず出てきたセリフが「私の国」。

そう言った途端に、実は私の中にあった怒りが爆発し始めて
ジョロを取り上げて、ぽこっと1人を殴った。

一瞬アメリカ人たちはびっくりしたけど、「なんて君は可愛いんだ」とか言い出して
うんざりするようなやり取りの後、
「それでもこの弱虫は君に感謝なんかしないよ」
と言って去って行った。

それは1984年の暮れ。
戦争から約40年が流れ、それでもまだ戦勝国の彼らがそこにいた。
(いや、今でもいる)
日本にいて外国人に差別されていた時代。
(今はどうなんだろう?)
今はどうなってるのかわからないけど、でも

思わず「私の国で」と言ってしまったあの時。
そのことをふと思い出した。

この同じ頃にアパルトヘイトのある国では日本人は名誉白人と呼ばれていた。
名誉白人なんて、それも差別じゃないかと私は思う。
それでもその呼び名を恭しく受け止めていた日本人たち。
そういう時代。

「それでもこの弱虫は君に感謝なんかしないよ」
と言って去って行ったけど、その通りで迷惑そうな顔で男の子は私を見た。
別に彼のためにしたんじゃない。
私は私の国で好き勝手しているのが許せなかったんだと思う。
たぶん。
誰かを助けようとしたわけではなく。

e0061699_02292081.jpg







by cazorla | 2019-01-05 02:30 | 思い出 | Trackback | Comments(6)



昔の記事を読んだ。
オスカー君のこと。
この記事を書いたのは2010年。
すっかり忘れていたこと。
オスカーが18歳で家出をした時の話。
そういうことが笑い話になるのなら素敵だったのにね。


オスカーはもともとロシアの男の子だったんだ。
この時の記事には書かなかったけどね。
スペインで、ロシアの子供を養子にする人は結構いる。
スペインに来た時は6歳だった。
もちろんちゃんとロシア語をしゃべっていた。
新しいスペインの両親は、ロシア語を維持した方がいいと思い、ロシア語の家庭教師を雇ったけど、
ロシアの辛い思い出があるから、ロシア語を拒否した。
スペイン語をすぐ覚えて、あっという間にスペインの男の子になった。

ああ、なんて素敵なの、と思った。
ロシアの悲しい男の子が幸せになってよかったと心から思った。

その子に起きた「家出」事件。
家出そのものはそれでいいと思う。

何が間違いだったんだろう。
一体何がどういう風にあったんだろう。
うちの長女、マリアは一緒に彼らの別荘で夏を過ごした。
ヨットに乗り、魚を釣り、楽しく過ごした。

第二の家出は、そんな思い出を粉々にしちゃったんだ。
父親のローレックスを盗んで、売りさばき、ドラッグの売人になった。
ポルトガルでは、ちょっとした顔になってしまった。
そのあと、一度だけマリアはオスカーと話したけど、ロレロレになっていたそうだ。

実子でも起こりうることなんだけどね、もちろん。
でもね、実子だったら、どこまでも実子として、受け入れる。
養子だと、切り捨てられるのか。

わからない。
両親はその後、離婚。

昔の記事を読んで、たわいないおとぎ話に近い家出の物語が悲しい物語に変わって
悲しい物語だけが残って、すっかり忘れていた、アフガニスタンに行く話。
少年の小さな嘘は、未来の笑い話になるべきなんだ。

e0061699_04342480.jpg

長男は19歳。
優しい未来が待っていますように。



by cazorla | 2018-04-20 04:36 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

e0061699_11214506.jpg
「今日は秋の1日目だね。」と夫が言う。
秋の1日目。
空の色が変わる。
風のタッチが変わる。
匂いが変わる。空気が変わる。
夫がそう言うとオートマチックに私は言う。
「クリストファーロビン」
抑揚をつけてゆっくりと。
クリストファーロ〜〜ビ〜ン

秋が来てクリストファーロビンがいなくなってくまのプーさんが探しに行く。
そうさ
学校が始まったのさ。

このディズニーのアニメがビデオになった時、長男が生まれた。
長女にこのビデオを買ってやって、ずっと見ていた。
長男が生まれたのは10月4日。

付録がくまのプーさんの森の地図だった。
地図を見て、ビデオを見て。

そう、1998年はまだビデオだったのだ。

長男が生まれて、そしてまだビデオだった。
長男がビデオにいちごジャムを塗ってビデオデッキに入れたのでビデオデッキが壊れた。
トーストとビデオは似ているから。
でもねー、トーストだって焼いてから塗るんだよ。
なぜに、塗ってから機械に入れるんだ。

子供たちの誕生で壊れていったものたち。
消えていったもの。
無くしてしまったもの。
失ったもの。
そして、得たもの。

秋の1日目に、考える。
時が流れて、私はここにいる。
歳をとったような。
とらないような。
ああ、とらないような、なんてあつかましいね。
それでも、時として、30年前とちっとも変わらない自分がいるような、そんな気持ちの時がある。
いや、ほとんど、そう。
変わらないんだよ。
困ったことに。

それでも変わって行く。
それも困った。
困ることが多いね。
困ったことに。

ああ、秋の1日目。
長男はでかくなって、ビデオはDVDになって、誰もDVDにジャムなんか塗らなくなった。
それでも困ったことはいっぱいある。
書ききれないくらいに。
困ったことに。

by cazorla | 2017-08-09 11:35 | 思い出 | Trackback | Comments(7)

1996年新宿区民

ふと最近思い出したこと。
昔、内職してました。マリアが生まれてすぐの頃です。
マリアを生んだ頃、子育てが楽しくで、子育てに熱中していました。
でも、やっぱりお金がないと困るなーと。
マンションを買ったばかりだったし、生活はなかなか大変でした。
区報を見たら、区役所で内職を紹介しているとのこと。それで早速区役所に。

新宿民だったんですが。新宿というのはなかなか良い区なのです。
赤ちゃんが生まれた時に出産お祝いがあります。
マリアは木製の食事椅子をもらいました。
かなり重いちゃんとした木で、かわいかった。
エンリケは、小さなソファーベッド。
それから、幸福の木とかそういう鉢植えがもらえます。
毎年、4月28日の緑の日には、やはり植木がもらえます。
夏みかんの木とか。
あと、ベランダにお花を植えると長さ1mにつき月1000円とかね。

ちょっと話が逸れました。つまり、新宿区は区民に優しい区なのです。
お仕事はすぐもらえました。
区役所の内職斡旋の係りの人は、50歳くらいの女性でした。
すごく優しい人。お仕事を斡旋するだけではなく、相談に乗ってくれたり。
宛名書きの内職をいただきました。
単純作業が実はものすごく好きなのです。

内職以外にも、新製品のモニターをしていて、図書券をもらっていました。
今でもそういうモニターのお仕事ってあるのでしょうか。
発売前のドレッシングとか、お菓子などが送られてきて、それについて感想を書く。
そういうものが送られてくるのも楽しかった。
中には一緒に図書券、500円分が入っていて、
2000円くらいになったら、本屋さんに行って。

30代の私はそういうことが楽しかったなと、ふと思い出したのです。

1996年、武満徹が亡くなった年。
マリアが生まれて、ちょっと貧乏で、それでも楽しかったなーと。
そして、マリアは卒論のテーマを武満徹にして、世界はきっとどこかで繋がっているんだなと。
繋がっている1996年の新宿のことをふと思い出したのです。



by cazorla | 2017-04-06 07:50 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

オレオレ詐欺

オレオレ詐欺にあったお母様の記事を読んだ。
リンクは貼り付けません。
密かにやってるブログだそうなので。
で うちの両親もオレオレ詐欺的なものにあったなと ふと 思い出した。

スペインに引っ越したのは 2000年。
マドリッド郊外のアルカラデエナレス。
セルバンテスの家のある街。
飛行機に乗るのは このカソルラに住んでからより 
はるかに簡単なのだけど
住み始めて 1ヶ月で 妊娠してしまい 高齢のため
体調不良
妊娠中毒症にもなって 末っ子誕生後も一年間 帰国できなかった。
つまり 二年間 ほったらかし状態。
今から 15年前。
父も生きていて 母は73歳くらい。
まだまだ しっかりしていると安心していた時。

久々に末っ子を連れて帰ったら
かなりやつれている。

実はね 

と母。

父の隠し子事件。
ある日 ある女性から電話があった。
『〇〇さん(父の名前。 フルネームで)いらっしゃいますか?』
『はい どちら様でしょう』
『娘です。』

ここで母は 明治の祖母に育てられたから 取り乱してはいけない と思った。

『あら こんにちは。 初めまして。』

と言ったそうな。 普通言うか? そんなこと。

私より 15歳近く上の女性。
だから 母と結婚するずいぶん前。
ある 飲み屋さんの女の人とそういう関係になってできちゃった と言う話。
そういうことがあったから まあ 否定はできないけど なんで今更 って普通 思いますよね。
男性なら いつでも 可能性を引きずって生きてるけれども。

でも母は 世間知らずの能天気だから
新しいお友達ができたみたいなワクワク感で

『じゃあ 一度 遊びにいらっしゃいな』

と言ったそうな。

それからが大変。
認知して 今まで払われなかった 養育費を払って欲しいという話に。

被害者は父。
『僕の子供って気がしないんだけど。。。』とボソボソ言う。
そりゃ まあ 50年以上前の話が ここで具体化されたら 誰でもそう思う。
裁判所に何度も行く羽目になり 検事さんに叱られて。

当時でも すでに 60に近い女性が 今更ながら認知を求めるっておかしいですよね。
普通なら 結婚前とか。
その人のお母さんが 本当に 父とそういう関係だったか?
実は 同僚だったかもしれない。

『あの 三回だけ』 と また 父がボソボソ言う。
そういうこと聞いてないんですけど。

そのあと 父は 血管が詰まって血が頭に行かないので認知症的な状態になり
手術しました。
手術は一応成功したんだけど いろいろあって亡くなりました。
母の誕生日に。

大変だったね、 パパ。

最終的には 私は DNA鑑定をしましょう と言ったら
そのまま立ち消えになった。

母になんで 電話があった時 拒絶しなかったの ってきいたら
私がずっと帰らないし 誰か遊びに来たら楽しいかなって思った
と まるで小さな子供のようなことを言う。
だから 世の中って 詐欺師がいっぱいいるんだなーって思いました。



by cazorla | 2016-03-10 20:31 | 思い出 | Trackback | Comments(12)

我慢しちゃ ダメ

うちの母は よく 我慢しちゃダメ と言う。
我慢すると どこかで 絶対 歪みが出てくるから
自分のためだけでなく 相手のためにも 我慢しない方がいいという。
私が 小さい時 昭和40年代 のことだけれど
花登筺という脚本家のドラマが 流行っていた。
母は 苦労話が 好きではなかったので ほとんど見なかったが
たまに ぼーっとくつろいでる時 たまたま テレビで流れていて
一緒に見たことが何度かある。
主人公の女性は 一所懸命働いてるのに 夫が 遊んで お金を使い果たす。
かわいそうな 主人公。
でも 母は 絶対 そういうのをかわいそうだとは言わなかった。
ほらね 我慢してるから 歪みができて 夫は 遊ぶしかないの。
かわいそうに 自分の人生が見えないんだ この男の人は。
それぞれが 自分の好きなことをすれば良い と言う。
嫌だったら 別れればいいと。
その考えも 条件によるし
最上とは 言えないかもしれないけれど
それでも 人とは違う見方ができるんだ ということを学んだ。

息子二人は 1998年生まれと2001年生まれ。
上の子のお母さんたちの方が はるかに若かった。
たまたま 下の子のクラスは やっと 生まれた一人っ子とか 忘れた頃にやってきた 末っ子とかで
小さな子供のクラスで 私は (幸いにも) はるかに年の離れた母親には ならなかった。
幼稚園時代 一番若いお母さんで 32歳。みんな 40前後。
でも 長男の方のクラスは お母さんたちがやたら若かった。
幼稚園時代 私は 40をとうに越していたが 他のお母さんは 20代。
幼稚園時代から 小学校2年生くらいまでは お誕生会をする。
都会に住んでいると 小さな子供を読んで 飛び跳ねさせる場所がないので
マクドナルドとか そういう場所になるが
田舎では 自宅でする。
若いお母さんたちは クラス全員を招待していた。
ガレージでするので 何人でも呼べる。
でも 若くない 末っ子のクラスでは 全員は呼ばなかった。
だいたい 仲の良い友達。
体力がないのも一つ。
もう一つは 『みんな仲良く。』 という教育が学校時代にしていなかった。
時々 週末に 末っ子は ちょっと悲しげだった。
眠る前に ポツンと
『あのね 今日は 〇〇のお誕生会だったんだけど
僕と ジプシーの 〇〇と モロッコ人の〇〇だけ 呼ばれなかったの。
みんな 集まって 遊んだんだ。』
と言っていた。
末っ子のことだから ますます 私は 胸がキュンとなって
夫に 報告していた。
でも 夫は 『自分の家で パーティーをするんだ。
嫌な やつは 呼びたくないのは当然だろ。』
と言う。
そりゃあ まあ そうなんだけど。

結果としては 末っ子は その後 大きくなる過程で
全く いじめにあわなかった。
長男の方が 中学の最初の年
まだ 背が高くなっていない頃は 苦労していた。

やっぱりね 無理しちゃ いけないのかもしれない。
嫌な奴とは付き合わない それでいいじゃないか と思う。

先日 久々にいじめ時代を思い出したのは 週末に来て ドアを叩いて 怒鳴る声で。
プート チノ   と 叫ぶ声。 走り去る音。
最終的には ケチャップかけ で 幕が閉じた。
ケチャップをかけにきたのは 一人だったかもしれない。
とにかく それで 幕を閉じた。
その程度のことで 気持ちが 落ち着くのであれば やればいいと思う。
彼らの心に
というより 人生に 何か もっと素敵なことが起きればいいのに と思う。
でも もしかしたら すっきりした気持ちで 前向きに 考え始めているかもしれない。

仲良くなんてしなくていいと思う。

よく 日本語に タコスはあるか と訊かれる。
つまり 前述の プート みたいな。
日本語 に ある?
くそっとか くそったれ とか 
でも 日常会話で 聞いたことない ですよね?
小綺麗に 整った社会だと思う。
だから 多分 歪みは あるんじゃないかな とも。

スペインに引っ越そうと思ったのは あるお母さんのある言葉が きっかけだった。
長女が 公園で 友達と遊んでいる時。
確か 三歳の時。
滑り台の上に女の子3人くらいで並んでいた。
その時 
『あああん 嫌だー マリアちゃん
うちの子の隣に来ないでェ 
ブスが目立つ』
みんな 笑った。
でも 子供達は 笑ってなかった。
言葉は 柔らかだった。
言ってる本人だって 悪気なんて ちっともない。
そして それは つまり 『マリアちゃんはかわいい』と言ってることなんだから
言っていけないことではない と思っている。
ああ だから マリアには 女の子の友達がいないんだと思った。
ゆいいつ ものすごく仲の良い友達は オーストリア人のお父さんを持つ ハーフの同い年の女の子。
二人はいつも一緒で 大きさも全く同じで 双子? なんて よく訊かれていた。

顔の作りが ちょっとだけ 違うんだよね。
どっちが 可愛いとかじゃなく。

ほんのり オブラートで包まれて 攻撃性の全く見えない排他性の方が 
体の中で 効き目を待つ毒のように 危険だ。
だから 私は やっぱり スペインに引っ越してきて よかったと思ってます。
たとえ ケチャップを ドアにかけられても。






by cazorla | 2015-12-18 19:25 | 思い出 | Trackback | Comments(10)

牧神たちの午後

コンセルバトリーの最高年齢の劣等生。
試験勉強中です。
今日は エスティーロ (スタイル)の試験で 
楽譜を見て 分析して 特徴などなどを 書く試験。
試験勉強中なのに こんなの作ってみました。


ドビュッシーの プレリュード。 牧神の午後

我が家の二人の牧神の写真。 



ダン ギブソン Dan Gibson  バージョン。
電子サウンドだけれど この写真整理しようって。
アルバロの写真が多すぎ。
しつこいから 少し へらせと言われたけど そのまま。

写真は 4月です。
早く 春にならないかなー。


e0061699_19561707.jpg


さ 勉強しよ。


by cazorla | 2015-12-01 19:57 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

経験がないと 想像する にしても限界があるんだな と 子供時代を思い出して考える。
なぜか ずっと心の隅に残っている言葉。

小学校の教室には二つ黒板がありました よね?
昭和40年台の小学校。
1967年。 チェコのプラハの春よりも前。
授業に使う 真ん前の黒板と 窓の正面の壁の連絡用の黒板。
連絡用の黒板に書かれたことば。

『上村くん(仮名)は パンツをはいてきてください』

違和感があったから そのことばが残ってる。
それは 小学校一年生の教室。
上村くんはいつもニコニコしていた。
なんとなく 大人な イメージがあった。
当時は クラス名簿というのがあった。
多分 今は無くなってるはず。(ですよね?)
個人情報保護法施行の後 無くなったと思う。
クラス名簿には 生徒の氏名 両親の氏名 職業と住所 電話番号。
やたら 国家公務員が多いクラスだった。
そして上村くんは お母さんとは苗字が違ってた。
でも それが何を意味するのかは よくわからなかった。
うちの母なんかもきっと そういうことは考えたこともないと思う。
そういうことに無頓着な人だったから。

でも 今 想像する。
上村くんとは あまり遊ばないようにしなさい と
言うような うんざりするような親がいたに違いないと。
私は 人とうまく付き合えない 昭和40年には少数派の一人っ子だったし
口も重くて ことばが出てこない。
そんな私と 上村くんは話していた。
私が おしっこを教室でしてしまった時も
まあ そういうこともあるわな と達観していた上村くん。

そういう大人の上村くんに対して
先生が 40歳くらいの いかにも教師的な女性だったけど
連絡用の黒板に書いたことば。

『上村くんは パンツをはいてきてください』

今 想像する。
お母さんが疲れていて 洗濯物がたまっていても
上村くんは何にも言わなかったんだと。
まだ 自分で洗うには 7歳は 小さすぎた。

クラスの男の子が 『お前 ぱんつはいとらんのか』と笑っても
女の子が さも軽蔑したようなしかめ面をしても
やっぱり 笑っていたし 相変わらず パンツを履かない日の方が多かった。

もしもその先生に想像力があれば 黒板にそんなんことは書かなかったと思う。

私は 人前で話せない子供だった。
話そうとするとうまく息ができなくなる。
ある日 先生が 浦島太郎の話を知ってる人は手を上げてと言った。
私は (もちろん)知っていたけど手を上げなかった。
『前に出て話したりさせないから 知ってる人は 手を上げて』
と言ったので しょうがないので手を上げた。
すると すぐに私を当てて 『前に出て 話しなさい』と言った。
騙したのだ。
私は前に出て 話そうとしたけど 声が出なくて 息ができなかった。
先生はしょうがないので 自分で 話して ところどころで 私に 『そうね?』と
確認して その度に 頭だけで頷いて そして席に着いた。
その時の 体の感覚を未だに覚えている。
あえて 子供を傷つける必要がないのに
傷つける
とは言わずに 教育という。

私は今では 結構 人前で話すのも平気になったし
ラジオに出て 馬鹿みたいにしゃべったりしたこともある。
でも 先生のおかげです ではなく 単に歳をとって そういう時代に入っただけ。
多分 上村くんも今では パンツを毎日履いてると思う。
そして まあ ああいうこともあったなーとニコニコしているに違いない。
そうだといいなと思う。


e0061699_08454318.jpg

同じ時代のスペインの子供たち。
この遊び 今では 禁止になっているそうです。





by cazorla | 2015-11-08 08:47 | 思い出 | Trackback | Comments(23)