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おばあさんの手

ミミズさんのブログでこれを読んで以来ずっとおばあさんの手の映像が目の前をちらつく。

何年前のニュースだったか。
ホームレスの老婆だったと思うが、誰かから市役所に相談に行けと言われたらしく。
でも市役所はもう終業時刻で、職員がカンパンの缶詰を渡して「明日来て」と言ったらしい。
老婆はその晩、市役所の敷地内で死んでいたとか。
胸にカンパンの缶詰を握りしめていたと報道された。

ホームレスの人が市役所に行ったということはかなり切羽詰まっていたんだろうなと想像する。
せめてボランティアの人に連絡するとか、そういうことを考える。
老婆ということばで、母と結びつけてしまう。
90歳になった母と。

母が カンパンの缶を両手で抱えている姿を想像する。
母はもう歯が悪いので、誰かが開けてくれたとしてもそれを食べることができないだろう。
食べられないカンパンを抱えて夜を過ごす。
母は戦時中に食べた配給のカンパンを思い出す。
戦争中のかわいそうな青春よ、と笑った。
それでも母は青春時代をやはり懐かしく思うのだ。
多分。
若く、かわいい、その時代を。
戦争が終わって祖母に内緒で見にいく映画のことも。

食べたものより食べなかったものを強く思い出す。
付き合った人より付き合いそうになって付き合えなかった人を思い出す。
愛したはずなのに、愛さなかった人が懐かしい。

矛盾をいっぱい抱え込んで、寒い夜、食べることもなく缶の中から出しそびれてしまったカンパン。
カンパンはいつも手のひらの中にあるはずだった。
カンパンを食べられなかったからと、かわいそうに思うのはやめよう。
カンパンはきっと青春時代を思い出させていたに違いないのだから。
だから歩くのをやめてそこで静かにあっち側に行ってしまったのだ。



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by cazorla | 2018-01-16 04:57 | 思うこと | Trackback | Comments(14)


もう10年くらい前になると思うけれど、外国人と言わなくちゃダメという記事を読んで違和感があった。
外人墓地ってことばはダメなの? と。
外国人墓地だと短歌が書けないじゃないか。
だいたい、外人と言わず外国人というようにしていますって人が私はどうも胡散臭い。
だってどういう状況で外国人ってことばを使うのよ?

じゃあね、ちょっと上品な料亭とか日本料理屋さんで「外国人お断り」と書いてるところ多かったけれど(90年代ね、今のことは知りません。)、外人お断りはダメで外国人お断りはいいんですか?

とにかく、まず元日本在住外国人である夫に訊いてみた。
「外国人、外人と言われたことがありますか?、そしてそれに対して不愉快と思ったことは?」
「呼ばれたことはあるけど、別に不愉快でも愉快でもなかった。」


このツイートでのコメント欄でふーんとか思いながら読んだ。
基本的には本人を前にして外人であろうと外国人であろうとそういうことばが出ること自体が変なんではない?

うちの娘がまだ小さいとき、乳母車に乗せていたころ、若い女の子たちが
「いやーん、かわいい! ガイジンみたい!」
「ガイジンよ」
「ガイジンの子供ってかわいい」
と叫んでたけど、悪気があるわけではないのはわかっていても不愉快だったし、第一娘はすごく嫌がってた。
いつかそういうことをどこかに書いたら、そりゃあかわいいんだからそういうのはしょうがないんじゃない?とコメントをいただいた。
でもね、もし対象をちゃんとした人間、一人の個人として認識していればそういうことばは出てこないと思う。
ウィンドウに飾ったお人形じゃないんだから。

ことばだけの問題じゃないんです。
どう使うか、使うべきかどうか。

例えば、



「ねえ、見て外人がいる。」っていう神経のなさが、ことばだけの問題じゃない。
ここで「ねえ、見て外国人がいる。」だとしても、嫌な感じがするのではないでしょうか。
そして同じページでフランス人女性が、紹介されるときに「外国人の〇〇さん」ではなく「フランス人の〇〇さん」と紹介してほしいと書いているのを読んで、そんな風に人を紹介する人が存在するっていうことに驚愕しました。

これは「外国人」とか「外人」とかいうことば以前の問題。
最初のツイッターでずっとコメントを読んでいると、どこ出身か質問するときも「失礼ですが、どちら出身ですかと訊く様にしている」というのがあって、それに対してもう他の人が「そうですよね。出身国は個人情報だから、失礼ですが、というのは常識ですよね」的な会話があってこれもびっくりした。

田舎に住んでいると「どこ出身?」と訊かれることが少ない。
スペインで、都会というか少し街に行くとちょっと話して、どこ出身?はごく普通にある。
長い間、カソルラに住んでいて、リナレスのコンセルバトリオに行った最初の日にデパートで訊かれて、あーここは都会だわと思った。
それは個人を個人として受け入れるということ。
その人を人間として受け入れるということ。
どこ出身かと訊くのは、失礼でもなんでもない。
どこ出身か訊いて、もし知らない国であれば質問してみよう、いろいろなことを。
誰でも自分の国を誇りに思っているに違いないんだから。

外人にしろ外国人にしろ、本人を前に言うってことが問題なんです。
なんで、どう言う状況で言わなければならないのか。
そう言うこと。
言う必要のないことばは言わない様にしよう。

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カソルラは田舎なので住み始めてすぐの頃
いきなり「中国人(チナ)」と言われたことが何度かありました。
その度に、今あなたが言ったことばの意図はなんだろう?と問いかけていました。
そしてそのことばを発する目的はなんで、その目的は果たせたかどうか、一緒に考えてみようと。

彼らは何も考えない。
考える機会を与えてやっと世界が見えてくる。
私が一人の人間で心を持っていることも、やっと気づく。





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by cazorla | 2018-01-11 06:22 | 思うこと | Trackback | Comments(4)

家事にレベルがあるの?

ツイッターで「家事が嫌いってことを認めて楽なる」とかいうのがあって、ああ、私もそうそうなーんて思ったんですよ。
私は嫌いというより、下手だし、やってることがちょっとズレがあるかも。
というか、日本に住んでいた時は、主婦としてそんなに酷いとは思っていなかったです。
というより、かなり立派な主婦だと思ってました。
お買い物の量だってスペイン人夫を持つ身としてはかなり頑張らなくてはいけなかったし。
お買い物して帰っていると、ご近所の奥様に「あらー、象を飼ってらっしゃるの?」なんて冗談を言われるくらい。
トマトを3キログラム、じゃがいも5キロ、肉類とチーズは1キロの塊などなど。
一人で持って帰れる量は限られているから毎日買い物。
お掃除はまあ普通に。
どうせ下落合の分譲マンションなんて狭いから掃除はあっという間。
お洗濯。うちは布おむつ使ってたからそれなりに。
でもそれが大変だとはちっとも思っていなかった。
他の主婦と比べてもまずまずのできだと。

ところがですね、スペインに住み始めると周りは筋金入りの主婦の集まりで、とにかく大変。
基本、体力が違う。
家に対する愛情が違う。いつ行っても、犬のいるお家でも、床がピッカピカ。
すごいなー。
いつもモップでピカピカになるまで磨いてる。

ある日ドイツ人主婦と話したらもっとすごい。
ドイツ人主婦がぼやいてた。
スペインのモップってやわだから、毎週1本折れるのよね。
ゴシゴシゴシ。
私はモップを折ったことなんぞない。
夫は月に1本折ってるけど、ドイツ人主婦のその愛情はまたも私を驚かせる。

とにかくそういう筋金入りの主婦に囲まれているから私はギブアップしてしまった。
体力ないですし。
そして夫が筋金式の掃除をしてくれるようになった。
そうじゃないとヘタレ日本人主婦はとてもじゃないが生きていけない。

まあ、それでツイッターの話ですが。
家事が嫌いと認めたところで楽になった、と書いていたんで、
ちょっと「同志」なんて思ったわけですよ。
で、「私もねー。
でもね、スペイン主婦に言われたの。
家事が好きとか嫌いとかっていう人初めて!(ゲラゲラゲラ)
家事は息をするようなもの。息をするのに嫌いも好きもない」

このエピソードは私はなかなか気に入っています。
彼女はそう言ってそのあと色々アドバイスしてくれた。
掃除の仕方、さっさとやってとにかくいっぱいしたと思える状態にするためのコツのようなこと。
それはともかく、息をするように家事をするスペイン主婦に囲まれて、大変だよんというエピソード。

するとツイッターの主はこう答えたのです。
「日本の家事レベルは高いですから。」

私と世界観が違いすぎる。
家事にレベルがあるということ。
レベルという考えが、実はすごく日本社会を窮屈にしているのではないかということ。
いや、色々なことが頭をよぎった。

でもね、ドイツあたりに行くと日本人は掃除が下手だから家を貸したがらないんですよね、などとつい言ってしまった。

「それは日本の恥です。」

ドイツ主婦の目から見れば日本主婦の掃除なんて、ほとんど掃除のうちに入らないかもしれない。
第一、日本在住の時、ドイツ人主婦のように家事をガンガンしてる人なんて見たことなかったし。
地方では日本にもガンガンしている人がいるのだろうか。
だいたい、ヨーロッパの家というのは、特に水回りに関してはかなり神経を使って掃除をしている。
しないわけには行かない。水が硬水だから。
石灰が溜まって水道だってあっという間に詰まってしまう。ステンレスが曇る。
窓ガラスは綺麗にしなくてはならない。
オランダあたりだと窓はプロに頼むというくらい、徹底して透き通らせる。
我が家のように小さい家でも窓は14個。
そして硬水の雨が降る。

日本の家事レベルが低いとは言わない。
キャラ弁を作ったりする主婦たちはすごいと思う。
ただね、私はレベルがあるとは思えないんです。
いや、レベルなんて考え方がいろんなことの間違いの根っこなんじゃないかと思います。
だって、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、フィリピン、日本、中国とどんなレベルがあるんだろう。
レベルではなく、種類が違うってだけでしょ?
種類が違うという考え方がないから、差別とか疎外とかいろんな問題が起きてるわけで。

「禁じられた恋の島」というイタリアの小説。
お台所のない家に住んでいて、毎日寝る前に小麦粉をこねてパスタを作っていた。
こねたパスタは伸ばしてベッドのヘッドボードにかけて乾かし、次の日に切る。
台所ないから台所の掃除はないけど、毎日スパゲッティーを作る生活ってすごいよねと思った。
世界中に色々な家事の種類がある。

田辺聖子の姥ざかり花の旅笠などを読むと商家の主婦が旅をして紀行文を書いたり、短歌を読んだりしている日本のいにしえのことが紹介されている。
日本の主婦が生み出す文化というのはすごいと思ってます。
スペインには「kakeibo」が売っていたり、お片づけの日本女性、なんたらまりこさん??、そういう本が売られていたりします。

でも、やっぱりレベルをつけるというのは、ちょっと違うと思います。
レベルとかレッテルとかそういうものをつけると見えているものが見えなくなったり、する。




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ビワの花。
幸田文さんがエッセイの中で1年の最後に咲いて、忙しい時期だから誰も気づかないうちに散って行くと書いていました。
そんなビワの花。
でも、ビワの葉っぱもビワの種もなんだか薬効がすごいらしいですね。
バラの花のように華やかじゃないからってやっぱりレベルが低いとかそういうのはないですよね。


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by cazorla | 2018-01-09 07:39 | 思うこと | Trackback | Comments(6)

日頃から思ってることなんだけど、日本って認知症がすごく多いような気がする。
この間、高層マンションの問題についての新聞記事(日本の)を読んだんだけど、
高層マンションが流行っていたのは(今もかもしれませんが)2000年ごろ。
20年経って、住んでる人が高齢化し、自分の家がわからず、うろうろしていると言う。
もちろん、どの階も似たようなものだけど。
それでも、一体幾つの人たちが迷うんだろうと。

70歳くらいで徘徊したり、痴呆になったり。
もちろん、アルツハイマーという場合もある。
スペインもそこそこアルツハイマーの人がいます。
ご近所さんのお母さんは65歳にアルツハイマーになって20年。
アルツハイマー協会というのもあって、たまにバザーなどもやっているのでアルツハイマー協会の人たちとの交流もあります。
でも、それにしても、認知症の人を介護してという話はあまり聞かない。

で、ふと昨日、思ったのだけど、
というのは、私は脳腫瘍が11年前に見つかって、処置をした。
それまで、頭痛で吐いたりしていたんだけど、そういうのも治った。
脳腫瘍のオペの前は、ちょっと暗い気持ちになっていたんだけど、一言、
「実は私、脳腫瘍があって。」
などというと、出てくる出てくる、脳腫瘍患者。

私の行きつけの歯医者さんが、カリフォルニア大学で勉強した人なんだけど、彼のお母さんも脳腫瘍。
そういう関係で、世界ナンバー5の脳外科医のうちの一人を紹介してもらって、安心のオペでした。
で、その頃、脳腫瘍の治療をしたのが、ご近所に一人、娘の通ってる中学の先生に一人いて、
脳腫瘍仲間ができた。
全く同じ年に脳腫瘍。

あら、脳腫瘍ってそんなに特殊な病気じゃなかったんだわ、とびっくりした。
その後、三人で再検査や状況などを分かち合った。

実は脳腫瘍持ってる人って多いんです。
今は電波が飛び交ってるし、
電話を使うことも多い、
見えない磁気が頭の周りにあるのだから、
脳腫瘍くらいできても不思議ではない。

でも、日本は検査にお金がかかるから、あえて脳腫瘍検査をしない。
で、65歳くらいでふと自分の家がどこかわからなくなる。
なんてこともありかな、とふと思ったの。

頭痛、吐き気、不眠、物忘れ、怒りやすさ、残酷性、憎しみ、集中力のなさ、異常な集中力などなど。
耳鳴り、虫のようなものが見える、失語症など。

脳腫瘍の簡単な自分でできる見つけ方

目を閉じて右手と左手の人差し指の先をタッチさせる。
目を閉じて片足で立ってしばらくじっとしている。

この二つ、どちらかができなかったら、脳腫瘍があるかもしれません。

スペインは検査が無料なので、あっちこっちに脳腫瘍患者を見つけられるのだと思う。
脳腫瘍を見つけていれば、認知症と思われる症状の人も減るのでは?とふと思った。

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ツイートを読んでいて、脳腫瘍だけど人に言えない、というのがあった。
あ、そうか、日本って脳腫瘍ですも言えないんだな、と。
それもあってこの記事を書きました。
普通に自分の問題を話せる社会が、健全なんじゃないかなとふと思ったので。

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by cazorla | 2017-11-04 08:40 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(2)

マリアはなかなか難しい子どもだった。
頑固だし、体がとにかく丈夫だから、外出してもずっと歩いてた。
7ヶ月くらいから歩いていたけど10ヶ月ではほぼバギーを使わない状態。
とにかく歩く。
そのくせ小さくて、10キロないくらい。
ちなみに歯が生えるのも遅く、10キロで歯がないとまるで3ヶ月程度の赤ちゃんに見えた。
それでも歩く歩く。
そして疲れても、バギーに乗らず、抱っこもされず、「独立」宣言をしていた。

そのくせ、やっぱり疲れているから、機嫌が悪くなって泣き出す。
そういう自分を制御できず、どうしていいのかわからなかったのだろう。

ハーフの子どもは、基本的に丈夫にできているから声もでかい。
だから、泣くとかなり他人の迷惑になる。
夫がよくあやしていた。

例えば、ライターを襟元から入れて、ワンピースの下から落とす。
冷たいライターが目の前から消えて、お腹に冷たい感触を残しながらスカートの下に落ちてまた現れる。
それが不思議で面白くてマリアはケラケラ笑う。

笑いというのは、驚きのあとの安堵の呼吸だと思う。
驚いて、息を止める。
そのあと、安心して空気が体から出て、一息つくのが笑い。
そのとき、声が伴われる。
それが笑い。

マリアがケタケタ笑うと、青年たちが言った。
「外人の子どもってよく笑うよな。」

外人の子どもはよく笑うのか?
笑いというのは遺伝子に組み込まれているのか。
いやー、そんなことはない。

スペインには中国の子どもを養子にしている人がたくさんいる。
彼女たちはやっぱりどこかスペイン人だ。
座り方、笑い方、目線のやり方。
生活の中で受け継いで行くもの。

そして、笑い。

笑いは驚きで止めた息がリラックスして抜けた瞬間と書いた。
そういう意味では、「これは冗談ですが」と言った後に言う冗談には笑いはない。
驚きがないもの。
それが笑いである日本では、子どもは笑えないだろう。
笑いが何か理解していなければ、ちいさな子どもを笑わせるのは困難。

ずいぶん昔に書いたのだけど、マリアがアトピー検査をした時、
採血するためにぐるぐる巻きに縛り上げられていたこと。
いくつかのメッセージに、危ないからそれは妥当な処置と書かれていた。
しかし、WHOでは、子どもをいかなる理由があるにせよ、縛り上げてはいけないと言う。

動いたら危ないでしょっ、と怒りの声が聞こえてくる。

末っ子のアルバロはスペインで生まれた。
41歳のときに生まれたのでそこそこ問題があった。
肝臓にちょっと問題があると言う。
それは私の問題で、血液に濁りがある。
本人の問題かどうか、しばらく血液検査をしましょうと言う。

まだ、生まれたばかり。
1ヶ月にもなっていなかった。
採血をするのに二人の看護婦さん。
一人が笑わせる係。
笑っているからそちらに集中している、
その瞬間を捉えてチクリと採血をする。

一瞬泣く。

すぐに笑う。

ああ、なんてプロなんだろうと思った。

「笑い」はプロのお仕事。
ガイジンの子どもがよく笑うのではなく、外人である夫がよく笑わせるのだ。
それはなかなかの労働だと思う。
気持ちに余裕がなくてはなかなかできない。

だから、私も頑張った。
一人でバスや電車に乗らなければならないとき、とにかく笑わせる。
夫のようにできない。
いくら「ガイジンの子ども」とはいえ、私と一緒のときは「日本人の子ども」になるのか?

いやいや、単に笑わせるのが下手な日本人母なのです。
それでもかなり努力して、まあ、夫ほどではないがそれなりに及第点はとったと思う。

世の中にはいろいろな固定観念がある。
少し、立ち止まって可能性を考えてみよう。
世界中の子どもを笑顔にするために。

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by cazorla | 2017-11-02 22:35 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(2)

カタルーニャ独立の真実

カタルーニャの独立問題が話題になっています。
カタルーニャがあげている利益を、怠け者のアンダルシアやなんの取り柄もないエストレマドゥーラが使っているなんて言って。独立にメリットはあるのかといえば、もちろんないに決まってます。なぜ、カタルーニャが利益があるかといえば、地理的なメリット。それはヨーロッパへの窓口担っているから、プロドゥクトがバルセロナを通って行く。そこで利益があげられる。ただ、それはスペインのカタルーニャだから。

カタルーニャが独立するにあたって、銀行がまず退いた。
バルセロナを本拠地にし、マークだってカタルーニャ出身のミロがデザインしているカイシャが退いた。
だいたい、ユーロを使わなくなったら銀行はものすごい損害を被る。
スペイン人がみんな食べてるパンのメーカー、「ビンボー」
チョコレートドリンク「コラカオ」(確かコルドバに移転)
そして、水道局がマドリッドに移転。
もちろん、移転の意味は、ライセンスを移転するだけで、現在はそれだけの話。
ただ、全ての税金がカタルーニャの外に行く。

カタルーニャの企業は市民戦争のときだってフランコを維持した。
それは、カタルーニャだけでは、メリットがないことがわかってるから。
そして、今もそういう考えは続いている。

そもそも大阪が独立したとして、メリットはあるか?
ってそれだけ考えてもわかると思う。
じゃあなぜ独立?

2017年になぜカタルーニャは独立しなくてはいけなかったのか。
なぜ、それが2017年だったのか。

それはアンドラに関係がある。

アンドラは税金がかからないから高級車はアンドーラで買うといいらしい。アンドラはそういう特殊な場所。
モナコ、スイス、ジブラルタルと同じように匿名の銀行口座が作れる。
誰にも知られず。
アンドラ公国(アンドラこうこく)、通称アンドラは、ヨーロッパ西部ピレネー山脈中にある立憲君主制国家フランススペインに挟まれたミニ国家であり、フランス大統領とスペインのウルヘル司教の2名による共同大公を元首とする。首都アンドラ・ラ・ベリャ
アンドラは税金がかからないから高級車はアンドーラで買うといいらしい。アンドラはそういう特殊な場所。
モナコ、スイス、ジブラルタルと同じように匿名の銀行口座が作れる。
誰にも知られず。
なおアンドラは、国際決済機関のクリアストリームに16の匿名口座を開いていた。
(WikipediaWikipedia)

ところがEUに意向もあり、フランスとスペインはアンドラの銀行に口座の開示を迫った。
そして来年、アンドラにある銀行は開示する。
さあ、大変、開示されたら闇のお金のルートが見えてくる。
そう思った人たちが、どうしたか。

独立。
独立したら安全圏。
アンドラの口座で開示義務があるのはフランス国籍の人とスペイン国籍の人の口座だけ。

独立運動のリーダーは自分の利益、個人の利益しか考えてなかった。
そして、今、カタルーニャはかなり困った状態になっている。
観光だって30パーセント減少、たった15日で。

独立運動は一体なんだったんだろう。

例えば、闘牛問題を見てもカタルーニャ独立運動はどこかおかしいと思える。
カタルーニャは、闘牛を禁止した。
私自身は闘牛は好きでもなんでもないけれど。
闘牛が「スペイン」の文化でカタルーニャのものではないということが一つの理由。
しかし、それは本当?

実は闘牛というのは地中海の文化。
だからもちろんフランスでも地中海地方では闘牛場がある。

今年の9月にフランスであった闘牛の一場面。
アニマリストが飛び込んできて、闘牛士を攻撃した。
そのあと、アニマリストは取り押さえられ、フランス国家が演奏され人々は歌い始める。

フランスはなんて美しい国なのだろうと思う。
もちろんたまに宗教に関してやりすぎでは?と感じることはある。
それでもフランスはしっかりと筋が通っている。
正しいということにブレがない。



ずいぶん昔、サルコジが大統領に選ばれた時に、フランス人は別にサルコジが好きじゃないけど、現実派なんだとある新聞記者が書いていた。理想主義に騙されない。
ちゃんと何がメリットか見極める。
理想主義者のことばに丸め込まれて、困った選択はしない、それがフランスなんだ。
隣の芝生かもしれないけれど。
ただ、こんな風に国歌が歌えるフランス人がちょっと羨ましい。

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などと言っていたら、息子が「僕もスペインの国歌を歌いたいんだけど、ほら、スペインの国歌って歌詞がないんだもん」とほざく。



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by cazorla | 2017-10-21 08:09 | スペインの新聞から | Trackback | Comments(8)

1990年に初めてスペイン旅行をした。
地球の歩き方が流行っていた時期。
地球の歩き方が地球の転び方と呼ばれていた頃。
HISが格安旅行券を売り出して、私もそこでアエロフロート航空で出かけた。
トイレットペーパーが分厚くてほとんどオーブンペーパーのようだった。
ソ連の飛行機。
座席の通路が狭くて、ソ連人のスチュワーデスさんが通るたびに肩を少し内側に入れなくてはならなかった。
日本人スチュワーデスと全く違う、大雑把な対応。
機内食に関しては何も覚えてない。
不思議なくらい何も記憶に残っていない。

周りには日本人がたくさんいて、どのくらい旅行するの?とかいろいろ話していた。

当時は、まだ飛行機で喫煙できていた。
どちらかといえば、喫煙者の方が禁煙者より幅を効かせていた時代だ。
禁煙席を選んだが、私の一つ前の席は喫煙席。
ほとんど禁煙席の意味がない。

旅行前に風邪をひいていた。
なんとか、熱も治り、咳も止まっていたのだが、前方から流れる煙で咳がまた出始めた。
下手をすると、咳が止まらなくなる可能性もある。

こういう時、普通はどうするのだろう?

私はスチュワーデスさんに相談した。
席を替えることが可能かどうか、とにかく酷いほど咳がで始めた。
スチュワーデスは前の席に座っているグループに話した。
彼らはスペイン人だった。

そのあと、彼らはタバコを後ろの別スペースまで行って吸うようになった。
おかげで咳も止まった。
スチュワーデスさんが、飲み物をひっきりなしに持ってきてくれる。
毛布を持ってきて、くれる。
飴を持ってきてくれる。
そうやって、やっと落ち着いたとき、周りの空気が変わっていることに気づいた。

「日本の恥だ。」
と誰かが言った。
それが私に向けて言われているのか、すぐにはわからなかった。
「非国民」と誰かが言った。
「信じられない!」ともう一人が言った。
そしていくつかのののしりの声を聞いて、それから日本人乗客たちは誰も私と口をきかなかった。

マドリッドに到着して、スペイン人たちが口々に体に気をつけて旅行するようにと言ってくれた。
タバコを吸う人も吸わない人も、みんなが口々に挨拶して、軽くハグをしてくれて、別れた。
スチュワーデスさんも、体に気をつけて、良い旅になりますようにと言ってくれた。
日本人乗客たちだけが、私を冷たい目で見ていた。

私はずっとこのことが心に引っかかったまま過ごしてきた。
もう30年近く昔のことだ。

引っかかっている。そして答えが見つからない。
夫に話してみた。

「それはね、日本人は我慢しなくてはいけないと思っている。
特に相手が欧米人だとなおさら我慢して何かをいうのはタブー。
僕はなんてたって、10年以上日本の外務省で働いてるからそういうことはよくわかる。
君は日本人なのに本当に日本人の心を理解できないね。」
そう言って夫は笑った。

我慢しないから日本人の恥?
やっぱり相変わらずわかっていません。
無駄な我慢は何の解決にもならないと言われて育ったので、やっぱりわからないまま歳をとって言ってます。
幸いなことにスペインに住んでいるので、あまり問題も起きないで誰かに怒られたりしないままに。

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写真は最近のマルタ島行きの飛行機


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by cazorla | 2017-10-13 06:23 | 思うこと | Trackback | Comments(6)

某ブログで、父親であるブログ主さんが家族の洗濯をして干す。
当然、20歳くらいのお嬢さんの下着も干す。
これに対して、「母親」が「恥じらい」を教えるべきではないかとコメントが入っていた。

恥じらいって何?

日本女性の恥じらいとか言って、これは日本の女性独自の文化のように感じている人も多いようだ。
本当に日本女性って恥じらいがあるの?
下着問題と恥じらいは、少し別問題なのではないかと感じる。
ここの辺はすごくややこしいので一つずつ検証した胃と思います。

恥じらいというのは「個」の認識だと思う。
自分がどういう存在か。それは「他者」の認識と対をなしている。
他人がいなくては恥ずかしいという気持ちは生まれない、もちろん。

足を広げて座るのも、電車で化粧をするのも、他者を意識していないから。

マドリッドのティッセン美術館は私立であることも関係しているのか売店で素敵なものがリーズナブルな値段で売っている。
ちょっとしたお土産にもオススメな小物が多い。
美術館そのものは印象派が多いので、そんなに煩雑に行かないが、たまに売店に入る。
売店は人気があって、結構繁盛している。
いくつか選んでレジに並んだ。結構、待たなくてはいけない。
後ろに並んだノルウェーから来た青年とおしゃべりしながら待っていた。
すると、日本女性が当然のように私の後ろに割り込んで来た。

私も彼も並んで待っているのにどうして割り込んでくるの?ときいてみた。
すると、その質問にびっくりしている。
「並ぶべきじゃないかなー? 割り込みなんかしたらよくないよ。」
「私たち同じ日本人でしょ!」と答えが来た。

この人たちは、日本では(たぶん)割り込みなんてしない。
でも、スペインで私という日本人をみて、全く良心の呵責もなしに割り込んで来た。
これは「個」の消失。
または、私と彼女たちは同じ日本人というくくりで、「個」の広がり。
私のことを他者とは思わなかった。
「私たち同じ日本人でしょ?」という言葉がそれを表している。

割り込みはよくないというと、時間がないという。
時間がない。せっかくスペインに15時間もかけて来たのに云々。

どちらにしてもそれは後ろに並ぶ人たちに、許可を求める問題。
スーパーのレジなんかでもよく、「今から子供を迎えに行かなくちゃいけないから、先に払わせて!!」とどなるママたちがいる。もちろん優先。

最終的には、日本人観光客用の別レジができて、そちらで支払いをして大急ぎで出て行った。

恥じらいは教えるもの?

前述した女性たちは、多分1950年くらいに生まれた人たち。
当然、「恥じらい」教育は受けてる。嫌になる程。
多分、最近の子はまたを広げて座ってけしからんなどと言ってるかもしれない。
それでも、堂々と割り込むなんて、恥じらいなんてないでしょ?

教えても無駄なんじゃないかなと私は思う。

それより、「個」の確立、他者とは違う自分の存在を認識すれば、どういうシチュエーションでも「恥じらい」のある行動はできると思う。

というふうに書いていてふと思ったんだけど、「恥」という言葉はだいたい「日本の恥」とか「家の恥」という感じで使われますよね?
「個」が家や日本という広範囲に広がって認識されているのが日本に置ける恥の本質かもしれないと思いました。

下着を見られるのは恥ずかしいこと?

下着を見られることは恥ずかしいことがどうか。
他人に下着を見られるのは恥ずかしいこと?
もし、勝手に下着を入れた引き出しを開けて、見られるとイヤですよね?

なぜか。

ずいぶん昔のテレビ番組。1970年くらいです。大昔。
久我美子だったか誰かが死を宣告されて、パンティを切り刻む場面が私の脳裏に深く残っている。
70年代はガンになったらほぼ絶望的だった。そんな時代。
70年代はほぼ福助のパンティを履いていた。そんな時代。
白い木綿で、使っていると黄ばみが出てくる。そこんとこを死んだ後にそれがたとえ家族であろうと娘であろうと誰にも見られたくない。それはとても恥ずかしいこと。

死んでいく怖さに比較したらそれは大したことではないかもしれないけれど、確かに大事なこと。
パンティを小さく小さく切り刻む。
そういうちょっと見られては困る、今、突然、交通事故に遭ってしまったら、見られては困る下着が引き出しには一つくらいあるでしょ?

これまた、ずいぶん昔、フランソワーズ・モレシャンというフランスのおしゃれ評論家だかなんだか、
色々な本を出して、フランスの女の子はどういうふうに日常のおしゃれをするか書いていた。
もちろん、私も一所懸命読んだ。
そこには、万が一に備えてレースのついた可愛い下着をいつもバッグに忍ばせておくこと、と書いていた。
万が一とはつまり、愛の一夜が突然起きるかもしれないということ。
なるほど、と私の頭にしっかりインプットされ、ほとんど無駄だったけど、レースフリフリパンティはいつも私のバッグの中にあった。
これはね、身につけている下着は、もしかして臭いがあるかもしれない、シミ(何かの!)があるかもしれない、古くてヨレヨレかもしれない、というような理由でちょっと「恥ずかしいもの」なのです。
当時はまだ「勝負下着」なんて言葉もなかった。

でも、同性の家に泊まることになっても、やっぱり予備の下着を持っているというのは大切な習慣。
同性が見てもやっぱり「恥ずかしい」。

父親が下着を干すこと

前述のブログの話に戻ります。

父親が下着を干すことについて、もし抵抗があるとすれば、それはなぜでしょう?
それと恥じらいって関係あるの?

コメントで「母親は娘たちに恥じらいを教えるべきだ」というようなことに対して『でもね、子どもがオムツしてる頃から僕が洗濯してるんで、子どもにとっては今さら違和感ないんでしょうね。」という答え。
つまり、父親を他者とするかどうかがここでは問題になるのではないかと思います。

父親がいつも家にいなくて、寝るのが早い子供は下手をすると週末しか会えない。
すると父親は、週末の「訪問者」としてインプットされる。
そもそも母親を「他者」として認識するのはかなり成長してからです。
お尻が気持ち悪いなーと思うとオムツを替えてくれる母親は自分の一部。
鼻がかゆいから指でかく、それと同じ。
鼻をかく手は自分の手。それと同様にオムツを替える手は「自分」の手。
そこには他者認識がないのです。

うまくいっている夫婦の子供が最初に発する言葉は「ダディ」だとアメリカの研究報告があります。
それは、生まれた初めて認識する「他者」だから。
人の名前を呼ぶ、というのは他者認識。自分のことは呼ばない。だから、ママはその後になる。
うまくいってない夫婦に当てはまらないのは父親は排除された「他者」だからだそうです。
もちろん、全てが日本の家族に当てはまるとは限らないのですが。

ところが、父親が甲斐甲斐しく赤ん坊の世話をしているとそれも変わります。
父親を他者だと思えない。
個が確立した後も、ファミリーとしての認識がずっと強く、下着を干されていも違和感がない。

つまり、父親が自分の下着を見ることに違和感がある女性は、父親が自分を性の対象として見るかもしれないという恐怖もあるのかなという印象があります。

だから、これは「恥じらい」の問題ではなく、父親の存在がどういうものか、という、娘にとってどういう位置付けがされているかということなんじゃないかと思います。

息子が下着を干すこと

うちでは息子も洗濯物を干す。
もちろん、娘の下着も私の下着もある。
別に息子にだけ干させているのではなく、娘だって干す。
家事のローテーション。
男女平等ということもあるけど、息子に下着を干させると別のメリットがある。

つまりちょっとやそっとの下着で異常に興奮しない男になる。
人生、しょうもないことでダメにしてしまう人って多いでしょ?
脚を組み替えて、チラチラ、バサンバサンと見せて誘惑してくる女子を無視して欲しいです。
だいたい、下着フェチにもならない。(ちなみにスペインにはほぼ下着フェチはいません。)

洗濯物を干すのは、10歳くらいからしてるから全然抵抗はないようです。
余談ですが、うちの息子と結婚するとメリットいっぱい。アイロンかけも上手だし、ボタンくらいはつけられる。

うちの娘の恥じらい教育

なんてしてません。
反対に私がされることもある。
スパッツを履いて掃除をしていると、「ヴィーナスの丘」が見えるから隠すべきだとしつこい。
田舎のカトリック社会で育ってるから。
家の中だからほっといて欲しいんだけど。

(注釈:わかりにくいかと思いますが、イスラム教もカトリックも基本の根っこは同じところにあるせいか、キリスト教も体の線を出すことがタブーだった時代があります。あのハーレムパンツのようなものがイスラム圏で着用されるのもヴィーナスの丘が見えないための配慮。つまり、ジーパンもNGなんです。ここは中世かと思うんだけど、とりあえず、娘の意思には従ってました。ただし、家の中でまで言われるのはいやだ!最近、娘も都会で学生生活を送っているので、今では普通にジーパン履いてます。)

恥じらいっていうのは社会的な問題かなと思う。
というか社会における自分の存在の認識。
あと、テレビの普及で対象との距離が測れなくなっている。
世界認識がテレビ画面と同じ。
目の前にいる人を、テレビの画面と同様に見る。
これは世界共通だと思う。

電車でまたを広げて眠ってる女子高生の恥じらい云々とかよく書いてるけど、結局、家でテレビを見ている時と状況が変わらないのだと思う、外にいるという意識が少ない。

だから、恥じらいなんて教えてもしょうがないと思う。
教えても、日本の外に出て、割り込みするような恥知らずな行為に出てしまう。
ただ、自分は一人の人間で、外界とどう関わっていくかを認識させることしかできないのではないかなと思います。

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by cazorla | 2017-10-11 16:43 | 思うこと | Trackback | Comments(9)

知らないうちに10月になっていた。
それも7日。
エストレマドゥーラにいる息子に仕送りするのすっかり忘れていた。
だいたい月初めに送るのに。
グランドピアノを買って、経済的に問題がある、ということできっと最速の電話を控えているのだろう。
それとも忙しすぎて電話できないのかも。
かわいそうに。

息子がピアノを学んでいるエストレマドゥーラのバダホスは、コンキスタドーレスがたくさん出たところ。
つまり、どっか行かなきゃやってられんよ、というような場所で、そのせいか観光もいまいち。
だから教育に力を入れて、コンセルバトリオが充実しているのかどうか。
とにかく小ぢんまりしたいいコンセルバトリオです。
フルートなんて定員1人だし。

それでも、すぐそばに世界遺産のメリダもあるし、ヨーロッパで一番見事な桜地帯がある。
その桜がすごいらしい。
十万本くらいの桜がずっと遠くまで花をつけるそうなので来年3月に行く予定にしています。

そしてその桜は全部さくらんぼができる。
それはやっぱり素敵なことだ。
さくらんぼをつける桜の木は何百年も生きる。
さくらんぼをつけないソメイヨシノは60年の命。
クローンであるソメイヨシノ。

人間のクローンを作るという計画があって、作って欲しい人は応募したらしい。
そのうちの大多数が日本人だと言われているけど、ほんと?

ヒトのクローンってやっぱりヒトと同じ知能なんだよね?
感情はどうなの?
自分と同じ顔をした人が、すごい速さで年をとっていくのを見るってどんな感じなんだろう。
あまり見たくないな。

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バダホスにて、うちの末っ子。
現在は一人っ子としてうちで君臨してます。


バダホスってほとんど誰も興味ないかもしれないけれど、よかったら見てください。
実際、ほとんど誰も見にこないんだよね。
でも、なかなかいいところです。
変な人もいっぱい住んでるけど。
神は死んだとか怒鳴ってるじいさんとかね。
まあ、そういうところも含めてとってもスペインな街だと思います。






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by cazorla | 2017-10-08 09:44 | アンダルシア以外の街 | Trackback | Comments(2)

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車椅子の人がいます。
スペインに来て、車椅子の人が多いなと感じました。
マドリード郊外、アルカラ・デ・エナーレスに住んでいたときも、バスに乗るときなどによく出会いました。
若干の違いはあっても、どこにいようと車椅子の人の数、その人口に対する割合はあまり変わらないのではないかなと思います。
それなのに、日本に住んでいるとあまり車椅子の人に出会わない、ですよね?
どうしてなのでしょう。

1980年くらいに、博多に行ったとき、車椅子の人をたくさん見ました。
博多のピカソ展に行ったので、県立美術館のあるあたりです。
車椅子が滑り出すように、さっさーと走り去って行ったのです。
もちろん、たくさんと言ってもせいぜい5台くらいだったと思うのですが、その風景は未来の扉を開けた場所を示唆しているように私の頭に残りました。
車椅子の人たちは、付き添いの人もいなくて一人で颯爽と走り去って行きました。

そのときは、なんといっても18歳のガキンチョだったので、博多は交通事故が多いのだろうかと思ったのです。
それでも、車椅子の人が自由に一人で動き回っているシーンはとても美しく感じました。

多分、博多の街は、車椅子で動きやすいデザインになっているのでしょう。

スペインに来て、車椅子の人をたくさん見るようになって思うのですが、車椅子だけではなく手話で話している人がその辺りにいたりする、それが健全な社会なのではないかと思うのです。ダウン症の人もよくいます。ダウン症の人が経営しているお店もあります。

写真の話に戻ります。

この日は、ツナのコンサートの日でした。Tunaというのは、もともとはセレナーデを歌う大学生音楽グループです。
衣装も伝統的なマントをつけた中世のような服装です。

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こういう服装で、セレナーデを歌います。セレナーデは、バルコニーの下で女性に愛を語るとてもロマンチックな歌です。そのコンサートが終わり、特別ゲストがマリアッチのグループでした。

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マリアッチはメキシコの愛を語る音楽。歌唱方法は、いわゆるクラシックの声の出し方にも準じているので、無理やり同じグループに入れてしまったのかどうか。でも、とにかく、このマリアッチの音楽で、ツナの人たちもすっかりリラックスして一緒に踊ったりとても楽しく過ごしました。

踊りは二人で組んで踊る、いわゆる社交ダンスのような感じです。
カップルで来ている人は、パートナーと踊っていましたが、一人で来ている人、同性の友達と来ている人は、踊る相手を探して踊ります。

車椅子の人も踊る相手を探して踊っていました。
断る人もいるし、断らない人もいる。
それは、他の男の人たちと同様です。

「車椅子を使っている」というのが、その人の特徴の一つでしかないのではないかと、ふと思いました。
太っているとか痩せている、背が高いとか低いとか、そういう特徴の一つに過ぎないのではないかと。
もしかして、私たちは「身障者」ということに構え過ぎてしまうのではないかと思います。
例えば、身障者が踊りを申し込んで、断りたいと思っても、断ると差別しているような後味悪さを感じてしまう。
だから嫌だけど踊る。
それがまた嫌だから、できるだけ関わらないようにしたいと思う。

そういう意識構造があるのではないかとふと思いました。
でも、ここでは、踊りたいと思う人は踊るし、断る人は断る。
断られても、彼はちっとも気にせず、次の女性を見つける。
彼は彼で、「身障者」だから断られてしまう、とは思っていない。
いや、思ってるかもしれないけど、だからってそれは背が低いからモテない、と同じレベルで考えているのではないかと思います。

そういうごく普通に付き合いができるようになるには、たくさん車椅子の人が街に出て、関わりを持つというのが第一歩。
そのためには、車椅子で一人でどこにでもいける街づくりをするというのが基本になると思います。


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by cazorla | 2017-10-01 06:10 | スペイン 文化 言葉 | Trackback | Comments(10)